山びこ学校 |
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■公開:1957年 ■制作:八木保太郎プロダクション、日本教職員組合 ■制作:若山一夫、戸田金作、浅野正孝 ■監督:今井正 ■原作: ■脚本:八木保太郎 ■撮影:伊藤武夫 ■音楽:大木正夫 ■美術:川島泰造 ■照明:吉沢欣三 ■録音:岡崎三千雄 ■編集:神谷修介 ■主演:木村功 ■寸評: ネタバレあります。 |
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無着成恭と言えば私の世代では「こども電話相談室」です。 平成の世の人にとっては、この映画に出てくる生活レベルはどこか未開の国の山奥の村?くらいな状況に見えるのではないでしょうか?いやいや、ほんの60年かそこら前の日本です。 北国の山間部で農作や林業で生計を立てているこの村は、子供も貴重な労働力です。農繁期には子供も学校を休んで働かなければならないのです。払った木の枝を束ねて背負い、炭焼き小屋まで、当然ですが徒歩で急斜面を上りつつ、運ばなければなりません。 嫁には母親になるための頑丈な身体が求められ、舅や姑の世話をし、夫に対しては献身的に尽くし、育児に家事に農作業、まる一日を働きづめに働きます。身体を壊すと、嫁は里へ返されます。それはまるで農機具が壊れたからメーカーに返品しちゃいましょうというマインドと同じです。 そうですよ、これはつい60年くらい前の日本の話です。 そんな農村の子供たちを預かる学校の無着先生・木村功は子供たちに自律・自立・自発の精神を育成しようと、何か問題がおきると「こうしなさい」とノウハウを教えるのではなく「なぜそうなるのか」と事の本質を見つめるように指導します。平和な時代の都会の裕福な子供たちのように、黙っていれば食べ物が出てくる、温かい布団で眠れる、そういうことはこの村では一切ありません。それが良いとか悪いとかではなく、現実を受け入れて、自分たちの生活改善は自分たちの問題として取り組みましょうと教えます。 クラスメートが貧乏で、修学旅行に行けないのであれば、みんなでその子の家の労働を分担して請け負って、費用をねん出します。大勢でちょっとずつ負担すれば、大きな不可も分担できます。同じ労働でも、人助けになっているというのは、自分の貧乏もみんなで助けてもらえるのではないかという希望を抱けます。 修学旅行の宿泊先で布団を敷かない子供がいます。無着先生が理由を尋ねると、いつもこうやって寝ているので気にしません、と回答します。この村の生活改善はどうやら前途多難なようです。 ある日、貧乏だから子供を親戚の家に預けるので転校させたいという親がいます。教師たち・岡田英次、金子信雄、西村晃、そして杉葉子は子供がどこかへ売り飛ばされるのではないか?とピンと来るのでした。杉葉子はひそかに後をつけて人買いと接触したら説得しようと奔走します。 働き通しだった、嫁・本間文子は病気になりましたが、嫁ぎ先には医者へ連れて行く金がないので「おひかりさま」の祈祷に頼ります。そんなもん効果がないことは分かっていますが、嫁にこれ以上金をかける気が実は無いというのが本音でしょう。子供もうすうすわかっていますが、高圧的な父方の姑には逆らえないようです。 言いたいことが言えない、言っても改善しないだろうという絶望が蔓延しているのです。 子供が絶望したら未来がありません。甘やかす必要はありませんが、子供を絶望させてはいけない。 しかしこういう活動は村の安定をかき乱すものなので無着先生の父親で僧侶の滝沢修は檀家から突き上げを食らったようです。教師をやめるように説教されてしまう無着先生です。 ロクな看病もされずに本間文子は死んでしまいました。息子の文集に「働き通しで笑うことも忘れた母親が、今わの際に初めて本当に楽しそうに笑った」と書かれていました。死なないと解放されないほどつらい生活。 こんな文集が世の中に公表されたら村の恥、無着先生はバッシングの対象になります。 無着成恭の体験に基づいているので、一歩間違えると、虐待反対映画と思われますが、実のところはもっと根の深い話です。誰も好きで子供を働かせてるわけじゃないし、学校休ませてるわけじゃないし、子供を売りたいわけじゃないのですが、実は親の状況を改善しないことには根本的には解決しないな、というのが正直な感想です。 とはいえ、子供たちがたくましく、笑ったり、働いたりしている姿はそれだけで見ていて、大人の心を励ますものであるなあと、思います。映画の中だけでも子供がつらそうにしているのは、やはり映画は娯楽というスタンスの私としてはつらいところです。 こういう時代が日本にもあって、過酷な状況で過ごした子供たちがいたんだということを忘れないこと、そして同じことが世界中のいたるところで起こっているという現実を、平成の観客としてはこの映画から学びたいと思いました。 (2012年06月10日 ) 【追記】 |
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※本文中敬称略 |
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file updated : 2012-06-10