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一人息子


■公開:1936年
■制作:松竹キネマ(大船)
■製作:
■監督:小津安二郎
■助監督:原研吉、根岸浜男、西川信夫
■原作:ゼームス・槇(小津安二郎)
■脚色:池田忠雄、荒田正男
■撮影:杉本正次郎
■音楽:伊藤宣二
■美術:浜田辰雄

■録音:茂原英雄、長谷川栄一
■主演:飯田蝶子
■寸評:馬の腹の下をくぐるのは危ないから止めよう!


一人息子とは長男であるから、家督を継ぐとか、親の老後の面倒を看るとか、なかなか嫁の来てが無いとか、いろいろと大変である。

信州の田舎の製糸工場で働いている母親・飯田蝶子には学業優秀な一人息子・葉山正雄(子役)がいる。大久保先生・笠智衆は中学校への進学を勧めるが、この家には経済的にそんなゆとりは無い。子供といえど貴重な労働力である。しかし、長男は大久保先生に母親のオッケーをもらったと言ってしまったのである。

そんなに勉強したいのかと、母親は息子の手をとってバックアップを約束。これからは学問で成功する時代だ、もう一度、学問するために東京へ行くという大久保先生を慕い、また、学問で身を立てて母親に楽をさせると誓った息子なのであった。

時は流れて、母親はむしろお婆さんに近い感じの年齢になっていて、一人息子・日守新一は東京へ出て役人になったらしい。親方日の丸、生活も安定しているだろうと、飯田蝶子は息子の晴れ姿を見に東京へ出てくるのであった。

人の不幸は親子になったときから始まる。意味深長な冒頭のテロップは嫌な予感。息子は役人を辞めて夜学の先生になっており、収入も減ったらしく、町工場の中にある、ボロ家に格安の家賃で(騒音が激しいので)住んでおり、驚いたことにすでに結婚して子供までいる。

お母さん、そりゃもう実はビックリ、ていうかガッカリ。

息子は夜学の同僚に借金してまで母親をアレコレもてなして安心させようとするし、妻・坪内美子のことも気に入ってもらいたい。気まずい感じをお互いに感じつつ、息子はかつての恩師の大久保先生が学問なんかとっくにあきらめてショボイとんかつ屋のオヤジになっているところを見せる。先生、妻子もちで赤貧生活。

息子はなぜ大久保先生の姿を見せたのか、青雲の志とかそんなのは東京じゃ全然通用しない。人間が多すぎて田舎者はゴミみたいな扱いなんだと、学問をあきらめた理由は「しようがない」んだと、母親に「あきらめて」もらいたいのが本音。

ここでついに、母親の怒りが爆発。アンタのために田畑売り払って、もうすでに母親の実家も借金のために人出に渡っており、工場の寮になんとか置いてもらっているのであって、それもこれも息子が学問で身を立てて、少しはこっちの暮らしを楽にしてくれるって、息子が期待の星だったのに、それを、なんだって?「あきらめろ、都会は厳しいんだ」だって?冗談じゃないよ!

息子に絶望した母親だったが、近所のガキ・爆弾小僧が馬の腹の下をくぐって、しかもグローブが買えない貧乏がその原因で、馬に蹴られて病院へ担ぎ込まれると、母親がやった小遣いをあっさりその母親・吉川満子にあげてしまう。

それ、優しいっていうか、甘いって言うか・・・母親は複雑な思いで田舎へ帰る。工場でも主要な戦力は若いピッチピチの女子たちなので、母親はせいぜい雑役しかできない。工場の重い鉄の扉の陰鬱さが、母親の絶望感に拍車をかける。

田舎の秀才が都会の学校でぶち当たった正しい自分の偏差値。しかし、息子はもう一度、学問をやるんだと決意を固めているであった。

継ぐ家もなく、母親の面倒を看る甲斐性もない、一人息子に学問をやらせたのは失敗だったんじゃないかと、母親の悲しみは深くて大きい。息子とてそれは同じ思いなのかもしれないが、なんともお先真っ暗な映画だ。金があってもシアワセになれるとは限らないが、金がなくてもシアワセだというのは何かを諦めているからである。

ひょっとしたら田舎に帰れるかもしれないという息子の期待も、東京で同居という母親の期待も互いに諦めざるを得ない。それにつけても・・・というオチは時代を問わず万能の下の句である。切ないねえ。

ところで、馬の腹の下をくぐるのはゼッタイにダメだ!腹の下には急所が集まっているから、ここが水に濡れるだけでビーヒャラ暴れる馬もいるくらいだ。蹴られるどころか、踏まれるぞ!蹄鉄はいてる500キログラムに踏まれたら、人間なんてモナカだ、ナカミ出ちゃうぞ!

2010年12月04日

【追記】

※本文中敬称略


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■日のあたらない邦画劇場■

file updated : 2010-12-05