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長屋紳士録


■公開:1947年
■制作:松竹
■製作:久保光三
■監督:小津安二郎
■助監:
■原作:
■脚本:池田忠雄、小津安二郎
■撮影:厚田雄春
■音楽:斎藤一郎
■美術:浜田辰雄

■照明:磯野春雄

■録音:妹尾芳三郎

■編集:杉原よ志

■特撮:
■主演:飯田蝶子
■寸評:


女性にとって子供を産むというのは何時の時代でも命がけである。ゆえに、母となった女性はそれを誇りとするだろうし、子を持たなかった女性はちょっぴり後悔をする。いずれ子を産めなくなった時、女性は親から受け継いだ命を伝えられなかった寂寥感に包まれる。

この映画に出てくる飯田蝶子は、後家さんで子供はいない。

東京の下町、まだ敗戦間もないから人々はすっかり貧乏。長屋に住む為吉・河村黎吉の家の居候、田代・笠智衆が九段で営業中に浮浪児のような子供・青木放屁を拾ってきてしまったことから、この物語は始まる。

子供一人食わせるためには金もかかるし、単なる厄介者だから、どこかへ捨ててくればいいじゃないかと、随分な話だが日本はまだ貧しいのである。その役目は後家さんの飯田蝶子に押し付けられてしまう。

最初は懐かないし、汚いし、寝小便をたれる子供が鬱陶しくてしょうがなかった飯田蝶子だったが、一緒に寝起きしているうちに少しずつ情が移ってしまう。どうせ捨て子だろから、自分の子供にでもしようと思った矢先に、実の父親・小沢栄太郎が現れる。

あともう少しで手に入ると思ったシアワセがスルリと抜け落ちる。飯田蝶子は大泣きするのだが、それは子供のシアワセを願ってのこと、たぶんやせ我慢だけど、実の親がちゃんとした人だったので飯田蝶子もあきらめがついたのだろう。この時点ですでに彼女の心には母性が強く育まれていたということなので、その喪失感たるや想像を超える。

長屋の住人のススメもあって子供を養子にしようと考える飯田蝶子、ああ、こんな優しい心を持ったオトナ達っていいなあ、という甘いムードを一蹴するのがエンドマーク前にスクリーンを埋め尽くすほどたくさんでてくる上野に住み着く戦災孤児たちの群。

現実は、そうは問屋が卸さないんだと最後の最後に、ヒリヒリと冷たい。

千葉の銚子まで子供の親探しに奔走して、無駄足だった腹いせもあって、子供を海岸へ置き去りにしようと、貝を拾いに行かせたすきに飯田蝶子が猛ダッシュで逃げ出す。着物で砂浜ダッシュって、まるでどこかの体育大学の柔道部のようだが、とにかく裾がまくれるのもものかはな、飯田蝶子の走りが素晴らしい、ていうかシンドそう。やっと安心したところ、見通しの聞くそんな場所ではすぐに見つかってしまい、体重の軽い子供にあっという間に追いつかれてしまう。

捨て犬のように、追われても追われてもついて来る子供。ここでオトナに見捨てられたらのたれ死にだと、本能的に知っているのである。オトナの弱みを見つけたらとことん泣いておけば、自責の念にかられてオトナのほうから折れてくる。子供でも生きる術を身につけているところがある意味、悲しいというか、厳しい現実そのものだったのかも。

「天気予報は当らない」八卦見で生計を立てている笠智衆が「のぞきからくり」の口上唄を、茶碗叩いて歌う。そういえば、アレ、トラホームになるから止めなさい!と子供の頃に随分と言われたが、映画の中でも飯田蝶子が言ってたからたぶん当時の衛生状態から察するに流行っていたんだろう。

古い映画の見どころは当時の、東京の姿と日本語(口語)と日本人の姿かたち。そう、あんな顔した子供は今、ほとんどいない。水っ洟たらしてるのが当たり前、映画の中で飯田蝶子の幼馴染で、どこぞの内儀・吉川満子も証言していたが、すっかり最近、見かけない。花粉症の子供はいるけど、青っ洟はとんと見かけず。

飯田蝶子と子供が写真館で記念撮影をする。写真屋のオヤジ・殿村泰司にあれこれ注文つけられながら、家族のありがたみをしみじみと感じた飯田蝶子だったが、あの写真はどうなったのだろう?

妙に気になってしまった。

2010年11月21日

【追記】

※本文中敬称略


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■日のあたらない邦画劇場■

file updated : 2010-11-21