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手をつなぐ子ら


■公開: 1964年

■製作:大映

■製作:栄田清一郎

■監督:羽仁進

■脚本:伊丹万作、羽仁進、内藤保彦

■原作:田村一二

■撮影:長野重一

■音楽:武満徹

■美術:

■録音:安田哲男

■照明:本橋俊男

■編集:

■主演:佐藤英夫

■寸評:

ネタバレあります。


リメイク版のほう。

大阪弁は偉大である。清濁併せ呑む寛容さとデタラメさを持っている。

羽仁進といえばアフリカ、サファリである。別に大阪というところがサファリパークのようであるというわけではないので念のため。

キャメラの前でどこまでが演技でどこまでが素なのか微妙なくらいの子供たちの天然ぶり。稲垣浩監督バージョンのリメイク。

小学校の先生・佐藤英夫のクラスは、昭和の30年代にはごく普通の人数編成。錦三・香西純夫は長身でハンサムで運動も出来るが骨董好きの父親の趣味が高じて家計は火の車。家が裕福で私立の中学校へ進学予定の奥村・植田元求は、学級長の選挙で、少々頭の弱い寛太・森原幸雄に字を教えるフリをして自分の名前を書かせようとする頭脳犯。しかし、寛太が実に素直というか空気を読まないというか、あっさりと白状してしまうのだが。

寛太は母子家庭で少々オツムのほうが遅れ気味。クラスのみんなにからかわれたり、勢いあまって(?)土に埋められたりもするのだが、通りかかった超美人の女の人・北城由紀子に助けてもらったりしてちょっと嬉しい。

子供が狡猾で残酷なのはいつの時代でも同じだが、佐藤先生のような理想的な先生はそうはいないので、子供は子供なりにケリをつけていく。この生徒たちはマセてもいるので、北城由紀子を佐藤先生の嫁にしようと、弟である奥村をたきつけるのだが、彼としても実は姉ちゃんに婚約者がいるとは言い出せなかったりする。

錦三は貸し本屋のアニキ・山崎耕一からマージンを受け取って、クラスメートを引き連れて来店していたのだが、ある日、アニキは錦三に父親の大事にしている茶杓を盗んでくるように指示する。小遣いが少ない錦三としては、それを金にすれば家も助かるだろうと思っていたのだ。きっと、この子の家庭では母親が苦労していたのだろう、子供は親をいつも見ているものなのだ。

手先として使われた寛太は、サングラスで変装したアニキに茶杓を渡す。当然だがこの一件は警察沙汰になる。寛太は錦三のお父さんが困ってるだろうからと、雑貨屋で「柄杓」を探してやったりするのだ。いや、茶杓だから、庭に水まくヤツじゃないから。カワイイじゃないか、勘違いはしていても、子供の行動にはかならず理由があるのだ。

錦三はアニキから金をもらおうとするが、全然くれない。大人は汚いですから、最初から金なんか渡すつもりのないアニキである。貸本屋で遊んでいたとき、アニキがサングラスの男であることに気がついた寛太だったが、墓地の裏に呼び出されて脅迫されるが、寛太はへこたれず、アニキの足にへばりついて離れない。騒ぎをききつけた大人たちに寛太は「こいつは泥棒や!」と叫んだ。

寛太は錦三が主犯だとは絶対に喋らなかった。ペラペラ喋ったのはアニキのほうだ。錦三が怪しいと気がついたのは奥村とクラスメートたちで、子供の交渉ごとの解決手段は当時は取っ組み合い、しかもプロレスブームだから、プロレス対決。

卒業式の日、寛太は大いに褒められ、錦三は校長先生から苦言を呈された。奥村は私立の中学校へ進むことになる。子供の世界のちょっぴりソルティな別れの時だ。

錦三は寛太の家に行くと、寛太はこつこつやることは得意なので屋根の修理なんぞをしている。錦三は寛太のことが好きだといい、寛太も錦三のことが好きだと言う。

子供のことは子供にまかせておけばいい。大人の世界との境界線さえ、きちんと築けているならば。そこからはみ出しそうな子供を助けたり、褒めたり、叱ったりすればいい。踏み越えて子供を大人のシステムに利用しようとする大人がいるからダメなんだ。

どこまでが芝居で、どこからが素なのか、すくなくとも大人たちは演技をしているのだろうが、子供たちは驚くほど自然、というか演技してるんだけど、子供の演技で妙にほっとする。

大人の世界も子供の世界も、妙なところでおんなじだったりする、そこにクスリと笑わせられる。そうだ、大人は子供のなれのはてだからね。

2010年09月26日

【追記】

※本文中敬称略


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■日のあたらない邦画劇場■

file updated : 2010-10-03