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花影


■公開: 1961年

■製作:東京映画、東宝

■製作:金原文雄、佐藤一郎、椎野英之

■監督:川島雄三

■脚本:菊島隆三

■原作:大岡昇平

■撮影:岡崎宏三

■音楽:池野成

■美術:小島基司

■録音:長岡憲治

■照明:比留川大助

■編集:

■主演:池内淳子

■寸評:

ネタバレあります。


池内淳子はベテランの女給で、義務教育終了と同時に水商売の世界に入った。

病気の娘を抱えた大学教授・池部良、骨董の目利きだが生活力の無い先生・佐野周二、やもめの弁護士・有島一郎、大手スポンサーのぼんぼんでテレビ局のディレクター・高島忠夫、池内淳子の身体やお金を目当てに近づいてくる男たちはたくさんいた。

彼女は、池部良との愛人生活を解消し、バー「トンボ」のマダム・山岡久乃が入院中のため実質、店の経営を任されている。彼女も病院に通っていて、睡眠薬をもらってきたと言う。

映画はここから回想の形式をとる。池内淳子は、信頼していた佐野周二が、ぶどう酒の工場を経営している三橋達也に仲介した骨董品の代金を持ち主に払っていないと聞かされる。三橋は池内淳子の昔馴染で彼女のことが大好きで結婚したいと思っているが、彼の父親の愛人で今では三橋の母親代わりとなってる淡島千景は、池内淳子の身持ちの悪さを指摘して、やんわりと結婚に反対していた。

ことほどさように、女の女を見る目は厳しいのである。山岡久乃が言うように「適当な男と結婚するか、金をためるか、どっちかにしないと将来は暗い」のである。池内淳子の不運のひとつは彼女が「美人すぎる」こと。美人がシアワセになれるとは限らない、教訓である。

佐野周二は山岡久乃の世話になっている身の上、金に困ると池内を頼ったが、彼女の身体を求めることは無かった。池内淳子は彼を、生まれて初めて自分を大切にしてくれる男性だと信じ、三橋達也と別れても、佐野周二の面倒をみようと決意した。

彼女の悲劇は、本当の愛情に飢えていたことであり、実の母親との不仲もあいまって、相手に愛情を注ぐことで同等の見返りを心のどこかで期待していたことである。女給であるという身の上から、相手の男は彼女のことを便利な女としか見ていない。そのギャップを埋めるために、尽くすのだがその期待は常に裏切られていく。

唯一、おそらく池内淳子が本当に好きだったのは池部良だと思うが、彼には家庭があり妻子を捨てることができなかった。三橋達也との間もイイ線行っていたのだが、今度は彼女のほうが佐野周二との腐れ縁を捨てきれなかった。

池部良と池内淳子がデートするのは満開の桜の青山墓地。ここは昔から不思議で不気味、華々しさとやがて訪れる逃れようの無い死が同居している不思議なスポット、そして結末の暗示。

同性の目から見ていると、もうちょっと要領よく渡りきれなかったのだろか?と思うが、誰からも本当に必要とされていない、必要とされているのは肉体と金回りのよさだけだと自覚したとき、つまり、誰からも本当の愛情を注がれないと自覚した瞬間、守るべきものが何もない人間は絶望するのであろう。

池内淳子が「わたし、死ぬのよ」と佐野周二に告白したとき、きっと彼女は止めて欲しかったのだろうが、適当に説教され、挙句に「金を返すあてはあったんだよなあ」とさらにいいかげんな事を言われ、それはまた自分をアテにしてるんだろうと気がついてしまったときの、池内淳子の表情が切ない。

池内淳子の死、そのものは悲しいとは思わないのだが、身を清め、最後の生ゴミもきちんと始末して、タバコを吸い、複数の病院を回って少しずつ睡眠薬を集めて、遺書をしたためている間の、彼女の絶望が悲しいのである。

桜の花は表向きは華やかできれいだが、陽をうけて地上へ落とすのは黒い影。

自殺を決行し、小山田宗徳の「そして闇が来た」のナレーションに続く数十秒の暗転に池野成の音楽が流れる、彼女の孤独についての強烈なメッセージ。川島雄三監督にしてはしごくまっとうな映画らしいが、だからこそ言いようの無いほどの底冷えのする映画だった。

2010年09月05日

【追記】

※本文中敬称略


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■日のあたらない邦画劇場■

file updated : 2010-09-12