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人間魚雷回天


■公開: 1955年

■製作:新東宝

■製作:広川聰

■監督:松林宗惠

■脚本:須崎勝彌

■原作:津村敏行

■撮影:西垣六郎

■音楽:飯田信夫

■美術:進藤誠吾

■録音:中井喜八郎

■照明:傍土延雄

■編集:

■主演:岡田英次

■寸評:

ネタバレあります。


辞書で引いてみた。回天:天の運行を変える意。どうしようもないほど萎えた(国の)勢いをもう一度元に戻すこと。

「勢いを取り戻す」という後半の意味の前に、すでに戦局はどうしようもないと認めちゃってるのである。人間魚雷というのは特攻兵器、エンジンのついた魚雷に人間が乗り込んで敵に体当たりする、自爆兵器。その初陣となった学徒動員された将校たちの物語。

この作戦の訓練基地の状況がしめすとおり、帝国海軍にはすでに老人と子供しかいない。二十歳そこそこの若者が乗り込む兵器は開発途中であるので、訓練中に少尉・和田孝が事故死してしまう。出撃前夜、将校・丹波哲郎のはからいにより料亭で壮行会が開かれるのだが、明日死んでくださいという人たちの中には平静でいられない人もいる。

学徒動員された少尉たち・木村功宇津井健岡田英次、中尉・沼田曜一らはそれぞれに最後の時を過ごす。木村功は自分たちの運命がなにかとても理不尽な力で潰されることに憤りと絶望が半々、恋人・津島恵子とも別れねばならない。

実際には津島恵子が木村功に会うことは、あの状況だとありえないような気もするが、松林監督としては、彼らや彼女たちが、言えなかった事や、やりたかった事をさせてあげたかったんじゃなかろうか、せめて映画の中だけでも。

「戦争を始めたのが人間なら、それを止められるのも人間だ」と岡田英次は言うんだけど、確かに個人と個人の争いなら、しかしそれが国家と国家になってしまうと、この台詞は「太平洋の嵐」で三船敏郎が言う「ちょっと上手く言えないが、事が大きすぎてどうしようもない」に繋がっているんじゃないか。

基地にいる高齢の補充兵・加藤嘉殿山泰司が、岡田英次に心づくしの紅茶と寿司を差し入れる場面は、「世界大戦争」の笠智衆の視線と繋がる。二人の大人は、目の前の若者を死なせてしまうことに深い悲しみと、どこか後悔を感じさせる。

このように学徒動員された青年達に古参兵が親切にしたという話は筆者の実父からも聞いたことがあるので、この場面にはリアリティがあった、二次的な記憶だが。

出撃の朝に、沼田曜一が出身大学の名前を叫んで分かれていくが、それを見送る高橋昌也が「あっぱれな娑婆っ気だ」と応える。軍隊から見た一般社会への思慕や学問への未練なんてものを軍隊で口走ることはできなかったのだろうから、これが最後、ここしか言えないところで叫ばせた。

他の将校たちは特攻で戦死するが、岡田英次の乗った回天だけは、海底に沈んでしまい、映画冒頭の朽ちた回天の落書きは彼のものだった。

松林監督を含めて、映画であのときを伝える手段を得た監督の多くには、戦争や戦友への思い出を語るだけでなく、自分が年寄りになったからには絶対に、もう二度と若い者を戦地に送るもんかという決意表明が感じられる。

戦闘シーンが全然出てこない、とても静かな戦争映画であるが他の、どの戦争映画と呼ばれる作品よりも戦争は人間が死ぬことだと、体感させてくれる映画だと思う。

2010年08月29日

【追記】

※本文中敬称略


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■日のあたらない邦画劇場■

file updated : 2010-08-29