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野火


■公開:1959年

■製作:大映

■製作:永田雅一

■監督:市川崑

■脚本:和田夏十

■原作:大岡昇平

■撮影:小林節雄

■音楽:芥川也寸志

■美術:柴田篤二

■照明:西井憲一

■録音:西井憲一

■特殊撮影:的場徹

■主演:船越英二

■寸評:

ネタバレあります。


この映画に出てくる俳優さんには条件があります。それは「痩せていること」です。痩せていることと、 痩せさらばえていることは少し違うかもしれませんが、映画の限界です。

この映画に出てくる俳優さんたちの顔の区別はほとんどつきません。台詞のある人、中条静夫杉田康星ひかる、この辺がギリギリです。あとは泥まみれ、ヒゲまみれ、かろうじて人間とわかるレベル、個性も何もあったもんじゃないです、これもまた映画の世界観です。

戦後もうすぐ70年ですから、当時の人はもうすぐ全滅するわけで、2009年になって本当のホンモノを体験した人たちの口から出てきた言葉を、この映画を観る前に聞いていて良かったと思いました。そうでなければ、私にとってはただの気持ちの悪い、事実が悪趣味に誇張された映画に終わるところでした。

太平洋戦争末期の南方戦線、レイテ島。敗走している日本軍の中でも、米軍に相手にもされていない場所にいる、戦力が0に等しい、そんな部隊にいる田村一等兵・船越英二は肺を病んでいるので重労働もできず、生きてるから飯も食う、というわけで役立たずな存在であったため、病院へ行くように命じられます。

しかし病院だって重症患者で満員です。軽症患者を受け入れる余裕はありません。

一度は追い返されてきたのですが、分隊長から命じられ、田村は手りゅう弾とわずかな芋を持たされて再び病院へ行かされます。

重症患者が詰め込まれた小屋からまたもや追い出された田村は、傍の林で野宿をしている兵隊達に再会します。彼らもまた、田村と同じように部隊から捨てられた人たちでした。

足が悪い安田・滝沢修、安田と同じ部隊で彼のパシリをしている永松・ミッキー・カーチス、そしてすばしっこい 兵隊・佐野浅夫です。病院が空爆に遭います。動ける田村たちは林の奥へ逃げ込みます。病院には食料があったので、軍医たちはそれを持って一目散に逃げていきました。後には動けない病人が残されますが、病舎が直撃を受けてしまいます。食料漁りに行った兵隊もろとも吹き飛んでしまいます。

田村は昨日まで入れて欲しいと思っていた病院に収容されていた重症患者たちが泥まみれで大量に死んでいるのを目撃します。田村は死のうと思っていましたが、水があればガブガブ飲んで、水筒に詰めます。芋があれば雑嚢に大事に仕舞います。野火を見れば、そこに敵の存在を感じて逃げ惑います。

一人ぼっちで彷徨ううちに、田村は十字架を見つけます。そこは米軍が居留して去った後に、食料強奪目的の日本軍の襲撃を受けて無人になった村でした。かつての住人と思われる現地人のカップルが戻ってきます。騒いだ女のほうを射殺した田村は、小屋の床下に大切に隠されていた塩をゲットします。塩は貴重品なのでした。手りゅう弾は捨てなかった田村ですが、女を射殺した銃は捨ててしまいます。

田村は三人の兵隊たちと出会います。塩を分けてやる代わりに仲間にしてもらいます。ある場所へ行けば内地へ帰れると聞いた田村はひょろひょろしながら彼らの後に付いていきます。おびただしい数の兵隊が、幽霊のような、疲れ果てて、途中でバタバタ死んで行くのです。倒れた兵隊の遺品のうち使えるものは後から来た兵隊が奪います。そこには何の迷いもありません。

河を横断するときには、身の隠しようがないので、米軍の射撃の的になってしまいます。空から陸から一斉射撃を浴びたため、大多数の兵隊が死にます。三人の兵隊も全滅してしまい、再び独りぼっちになる田村。つい今しがたまで、歩いて、話していた兵隊が目の前でコトンと死んでしまいます。

途中で田村は米軍に降伏しようと思いますが、彼らに協力しているゲリラ達は兵隊としての教育を受けてませんし言葉も通じないので、投降してきた日本兵を蜂の巣にしてしまいます。彼らの中にあるのは憎しみだけなので、米兵の制止なんてガン無視です。田村は絶望します。

朦朧となった田村は、身体の一部が腐敗してしまった兵隊・浜村純に出会います。彼は蛆がわいている排泄物まみれの泥をムシャムシャと食べてしまいます。彼は正気ではありませんでした。

草原に出てきた田村は、安田と行動をともにして、猿を殺してその肉を食べて生き延びていた永松に再会します。すばやい猿がそんなに簡単に銃で殺せるわけがありません。彼らが殺していたのは大型の猿、つまり人間でした。安田も殺してその肉を解体する永松。田村は永松を射殺します。

もう田村にとって、野火の下にいる人たちが敵なのか、味方なのかはどうでもよくて、ただ彼は正気の人間に出会うために、危険な野火に近づいていくのでした。

生き延びるためなら本性むき出し、ウソやハッタリ、非日常が毎日続いて、死が日常化している状況。善とか悪とかそういうのは平和で正気な世界にしか通用しないのだと。生きるための糧を死んだ者から得る。最初は身につけていたモノを、次は身そのものを奪う。人間が餓鬼のようになっていく姿に田村は耐えられなかったことになっています。

船越英二、滝沢修、ミッキー・カーチス。まったく出自の違う三人が、同じ状況にぶち込まれて殺しあいます。三人の掛け合いは、時にはユーモラスで、絶望的で、ブラックを通り過ぎるくらいの恐怖です。

極限状態で正気を保つことがはたして可能なのか?戦争そのものが狂気だと言うのであれば、その中で食人をした彼らを断罪することなどできるのだろうか?

後の時代を生きる人たちは絶対見ておきましょう。そして、たくさんの「田村一等兵」の話を聞いておきましょう。

2009年09月19日

【追記】

※本文中敬称略


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file updated : 2009-09-22