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祇園祭


■公開:1968年

■製作:日本映画復興協会、配給:松竹

■製作:小川矜一郎、久保圭之介、浮田洋一、 遠藤嘉一、 茨常則、中岡清、加藤彰朗、鈴木一成

■企画:伊藤大輔

■監督:山内鉄也

■助監督:宮嶋八蔵、萩原将司

■脚本:鈴木尚也、清水邦夫

■原作:

■撮影:川崎新太郎

■音楽:佐藤勝

■編集:河合勝己

■美術:井川徳道

■照明:中山治雄

■録音:野津裕男

■製作協力:中村プロダクション

■協力:京都府京都市映画「祇園祭」制作上映協力会

■特撮:

■主演:中村錦之助

■寸評:

ネタバレあります。


東映を割って出た中村錦之助のワンマン映画。21世紀にプリントが修復されたおかげで、きれいな画面で堪能できるようになったのは喜ばしいですが、台詞が時々とぶのが惜しいです。

応仁の乱で疲弊した京都の町衆が、祇園祭を再興するまでの話です。京都の人たちにとってはとても大切な映画でありますし、京都は映画の都でありますし、中村プロ設立記念映画でもあるため大スタアが惜しげもなく登場します。

将軍家の跡目争いのおかげで、混乱した都市部に対して、地方では百姓が土一揆を起こし、馬借や川原者と呼ばれる被差別な人々がこれに加勢。京都の町は何度も襲撃されましたが、肝心の侍たちは統制が乱れて機能せず。そこで京都の町衆は体を張って六角堂を守っていました。土一揆の人たちは念仏踊りにまぎれこんで京都の町の中心部まで潜入。テロリストである彼らを追い出そうとした中町の人たちと一触即発になります。そこへ、その場の空気から完全に浮いている美女が登場。青大将・田中邦衛が「あやめ様」とよぶ彼女、あやめ・岩下志麻は笛の名手でした。

同じく笛の名手である染物職人の新吉・中村錦之助は彼女に惹かれていきます。一揆がなかなか収まらないのに手を焼いた細川家の依頼により、新吉たちの町内の男衆は山科に出兵することになってしまいます。一応、戦の本職である侍たちがフォローすることになっていましたが、手に職をつけて生きてきたプロレタリアートの新吉としては、なんとも無理やりな感じがするのでした。ところが経営者であり資本家である人たちはお上に媚びへつらい、これをチャンスに一儲けというまるで戦争成金のような(ていうかそのもの)マインドになってしまっているのでした。

戦争の時に何が怖いかというと、爆弾も怖いですが、人の心の変容がもっとも怖いというのは洋の東西と戦争の種類を問わないようです。

土一揆をしていた百姓・下絛正巳(アトムのお父さん)たちも実は生活が苦しくて、それもこれも侍たちが年貢とかを取り放題だからなので、実際に新吉たちが行ってみるとテロリストの村の人たちはほとんど餓死してしまっていたのでした。京都に来た一揆軍団に対して「無益な殺し合いはやめよう」と主張、娘・佐藤オリエの制止をふりきって彼らを逃がしたことを警護の侍に咎められてたたき殺された新吉の母親と、「本当に悪いのは侍だ」という、あやめの言葉にカルチャーショックを受けた新吉でしたが、目の前で親方・志村喬を含む東宝の黒澤組の人・藤原釜足と時代劇の大先輩・香川良介を殺された新吉は火事場の馬鹿力で、百姓に加勢した馬借の親分でありかつ黒澤組の高級幹部である熊左・三船敏郎の槍に突き殺されそうになりながらも懸命にこれを撃退したのでした。

このときばかりは戦争に取り込まれかけた新吉でしたが、彼は徐々に、この戦争の真実に触れていきます。

あやめは実は「かわら者」と呼ばれる被差別な出自でした。新吉は、高い才能を持ちながらも「人並みになりたい」と懸命に努力している彼女の悲しみに触れます。出兵のための武器を調達しに行った新吉は、同胞を殺すための戦争の道具を作らされている弦召(犬神人)の青年・北大路欣也から「これでたっぷりと人殺しをするんだろう」と吐き捨てられます。関所で馬鹿高い通行税に立腹した馬借たちが腹いせにぶちまけた米が実は、京都の町の資本家が金儲けのためにたくわえて、飢えている市民には行き渡らないようにしている事実も、新吉は偶然に知ってしまいます。

米が流通しなくなった京都は飢餓に見舞われます。一袋の米をめぐって、戦災孤児を引き取った腕のよい職人の助松・田村高廣の女房・斉藤美和が近所の奥さんとキャットファイト。子供がひもじそうにしているのを見かねての犯行と知った町の人たちは一気にブルーになるのでした。

ここまで散々な資本家でしたが、中には気骨のある人物もいて、丹波屋・御木本伸介は、新吉と一緒にかつての敵である馬借たちに米の運搬を命がけで頼みに行きます。これを知ったあやめは、ただでさえオッカナイのに、儲けをフイにされて頭にきている熊左に対して、新吉とはただならぬ仲になったことと、自ら人質になることを申し出て、京都の町へ大量の米を無事に運ばせるのでした。金の支払いを渋ったほかの資本家たちのリーダーである門倉了太夫・小沢栄太郎でしたが、新吉たちの熱意が本物であることを知り、ちょっぴり改心するのでした。

ただし、彼は資本家ですから、あくまでも自分が犠牲にならない範囲でしか改心しません。ここんところ、ポイントね!

しかし相変わらず高圧的な侍たちに対抗すべく、税金の不払い運動までやらかしたので町衆は目の敵にされます。武力で対抗しても侍には勝てない、ここはひとつ平和的な祭りで町おこしをしようというリベラルな考え方に目覚めた新吉のリードで、かねて30年も途絶えていた祇園祭の準備が始まります。しかし、祭りの直前になって、見るからに馬面な、ではなく腹黒そうな侍の高官・伊藤雄之助の裏工作で、神事は中止、おまけに京都御所の再建費用を負担しないと祭りをぶち壊すと脅されてしまうのでした。

それじゃあ何かい?侍が徴収する税金っていうのは「みかじめ料」ってことで、それを払わないなら店ごと叩き壊そうってのかい?そりゃあんた、ヤクザじゃないの。てなわけで、一度は萎えそうになった町衆の心でしたが、新吉の、労働組合の委員長のような、いや実際東映の最後のほうはこういうことしてたらしいから、見事な演説で盛り返した熱血な民意により山鉾は無事に完成。いよいよ京都の町に繰り出すことになります。お囃子は、あやめと新吉の共同制作、山鉾を引くのは弦召衆、みんな晴れがましい自分たちのお祭りに喜んでいます。

しかし、ヤクザは執念深いですから、山鉾巡行をその場で阻止するために兵士たちが緊急出動。まさか菊の御紋が入った山鉾には矢を射掛けられません。ターゲットは引き手である弦召衆たちです。実にイヤラシイ作戦です。きっと山鉾にうっかり当たったら「誤爆」を絶対に認めないで「そこにテロリストがいたんだ」と言い訳するに違いないわ!プンプン!新吉&山鉾の大ピンチ。そこへ馬借衆が駆けつけます。熊左の迫力で侍たちは蹴散らされ、逃げようとする侍たちを町衆が人間の鎖で阻止。しかし、この騒動の最中に新吉に矢が当たってしまいます。それまで、どちらかというと大人しい職人さんで芝居もナチュラルだった新吉が、断末魔には伊藤大輔監督の「反逆児」のような作りこみ激しい大芝居をする人になってしまい見ているほうは狼狽しますが、それはさておき。山鉾の前で熊左に担いでもらった戸板に揺られながら新吉は山鉾をリード。迫力に押された侍たちは手も足も出ません。新吉は万感の思いで山鉾を見上げて息絶えるのでありました。

で、高倉健と美空ひばりはどこに出ていたのかというと、健さんは税金不払い運動のケツを割ろうとして結局は新吉の説得に負けて、まるで労働争議のようなスクラムを組んで役人を圧倒する巽組の代表者の役でチョイと顔出し。お嬢は山鉾巡行のモブシーンでものすごく派手なメイクの町娘役で登場し、錦ちゃんを励ますのでありました。

そんなん、ノンクレジットでいいんじゃないか?とも思いますが、ま、わくわくしながら待つのもまた、楽しいものです。

この映画には被差別な人たちが描かれるため、見えざる敵を恐れて各方面でなかなか日の目を見ないという事情があるようです。しかし本作品に描かれるその人たちは、熟練の技術を持ち懸命に努力をしている人々なわけで、最後まで藍染めの藍色に染まった手指で、祇園祭の再興を成し遂げた新吉としては、っていうか大東映を出て、ほぼ裸一貫で勝負をしようと決めた中村錦之助としては、心が揺さぶられる共感があったのではないか?そうした人々、京都の人たちと、京都を愛する映画人としての自分のアピールとの最高のマリアージュ、乾坤一擲な映画にしようとしたのでありましょう。

新吉がはじめて敵を斬ったときに、相手の顔面から血飛沫が上がる(血糊噴射スイッチを押すのがバレてしまっていますが、そこはひとつ大人のマインドで)のを見て腰をぬかさんばかりに狼狽して逃げるところは「宮本武蔵」ですし、ゲストの三船は「七人の侍」ですし、金主の一人である松竹の顔を立てて最後の美味しい役どころが渥美清ですし、とまあ、あっちこっちにサービスしてるのが涙ぐましいです。一瞬ゲストの高倉健とか、中村錦之助の育ての親みたいなもんでもある美空ひばりがフィクションとノンフィクションの狭間で「日本一」とか「がんばって」とか、開店祝いの花輪的演出がこれでもかと出てくるので3時間近い長尺ですが、岩下志麻と中村錦之助のままごとのような逢瀬以外は睡魔に襲われることなく堪能できました。

中村一門からは弟の中村賀津雄、幹部の御木本伸介、殺陣師の尾形伸之介。お嬢の身内からは香山武彦。ま、これもひとつのお祭りですから、ご祝儀相場ですか。そして松竹に敬意を払って、山鉾を引くのは弦召人の親方でもあり、北大路欣也の兄貴?という役どころの渥美清です。

ここだけは納得いきません。京都ですから。坂東妻三郎、市川右太衛門、そして中村時蔵と、スタアの二世で山鉾はカッチリと固めてほしかったです。探しましたよ、最後の山鉾のシーン。欣也様がどこに、いつ出てくるのか?渥美清が侍に殺されて、きっと欣也様がトップを取るに違いない。ああ、それなのに撃たれちゃうのは、錦ちゃんなのでした。

社長つながりでもある三船敏郎は齢50になんなんとす、のはずですが、野生児のような馬借の大将を思いっきり過剰なテンションで最後まで奮闘してくださいます。それと、他の人がブリティッシュの鞍を適当にごまかした馬装であるのに、アップが多いからでしょうか?一人だけちゃんとした和鞍をご使用でした。慣れないと難しいと思います、木製ですから。ま、そこは持ち前のバランス感覚と運動神経で乗り切ったのでしょう。やっぱ騎馬シーンはキャンターでなくギャロップで。大河ドラマ「風林火山」の鞍がウエスタンの改造版だったことと、合戦シーンがもれなくキャンターでトロくさかったことに怒髪天だったわけですが、かように見事な馬のシーンを見ると、馬乗り映画好きの溜飲は気持ちよく下がるのでした。

伊藤大輔がメイン監督だと思っていたんですが、監督のクレジットは山内鉄也でした。アップ多様で、キャメラが動的でなく、テレビっぽいというか派手でわかりやすい演出が、巨大スクリーンだとものすごく大雑把な印象になってしまったのがなんとも勿体無いところです。せっかくこれだけ材料を揃えておきながら、セットがダサダサなのは最初から勘案しませんが、ゴージャスなスタアをほとんど見殺しのような有様です。あれだけ力のこもった演説、台詞ではなくて演説をしている錦ちゃんを、その他大勢の顔ナメで、しかもカメラのパンも無神経この上ないという、随所に見られるほころびがガッカリというより、気の毒で、錦ちゃんが。

これ、テレビドラマのサイズで、90分くらいに納めたら、後世に残る時代的の名作になったかもしれません。劇場で見るときは細かいところは無視して、いや本当に目に付きだすと辛いですので、豪華な画面のスターをウットリ眺めることを強くお勧めする映画でありました。

2008年11月02日

【追記】

※本文中敬称略


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■日のあたらない邦画劇場■

file updated : 2008-11-02