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神々の深き欲望


■公開:1968年

■製作:今村プロダクション

■配給:日活

■製作:山野井正則

■監督:今村昌平

■脚本:今村昌平、長谷部慶治

■原作:

■撮影:栃沢正夫

■音楽:黛敏郎

■編集:丹治睦夫

■美術:大村武

■照明:岩木保夫

■録音:紅谷愃一

■特撮:

■主演:三國連太郎

■寸評:巨大アラカン登場!

ネタバレあります。


ライフラインと国家権力のインフラ整備が不十分な南国の離島であるクラゲ島。ここでは、因習と古代宗教に基づいた独自の「法」と「律」が支配している。戦後に復員してきて、ダイナマイトを使用した密漁と姦通をしまくったせいで島に災害が起こったとされている屈強なおっさん、根吉・三國連太郎は、根吉の妻を犯して知恵の足りない娘、トリ子・沖山秀子をもうけた祖父の山盛・嵐寛寿郎の監視のもと、足鎖をつけて赤い巨岩を落下させるべくその直下に大きな穴を掘り続けている。それを手伝っているのは根吉の息子、亀太郎・河原崎長一郎。彼の望みは他の若者達の希望と同様、島の古臭い呪縛から逃れて都会でナウい青春を送ること。

近所の馬鹿であるトリ子はドンゴロスをリサイクルしたポンチョ型のワンピースを着用。ノーパンかと思ったら、ちゃんとズロース履いてましたが。村八分の家の者だということで島の語り部でイザリ(おまけに付け鼻)の里徳里・浜村純の青空ライブに集まったガキんちょたちから投石攻撃を受けてしまう。天然100パーセントのトリ子は、野ネズミを素手でゲット、ジャンジャ(爺さんのことらしい=嵐寛寿郎)や親兄弟はもちろん、夜這いを仕掛けてくる島の青年団(どうやら長谷川和彦が混ざっているらしい、よくわかんなかったけど)に対しても惜しげもなく裸体を披露する、水だけでなく、若い女も日照り続きのこの島の男子たちにとっては、トリ子は裸の女神様状態。

根吉に岩石落としを命じたのは島の絶対権力者である区長の竜立元・加藤嘉。根吉は妹のウマ・松井康子とも愛し合っていたが、そういう不道徳なことが原因で島に災いが起きたということにされていたので、さらなる神罰回避のためにウマは竜立元の妾になって、優秀なシャーマンとして生きている。

島民の生計はサトウキビの栽培で成り立っているのだが、日照り続きで育成状況はあまり良くない。砂糖の精製工場を経営する親会社から技師の刈谷・北村和夫が島にやってくる。小船にゆられた刈谷は港でゲロしまくる都会育ちの軟弱体質。水不足解消のために水源を探し、パイプラインを敷設するのが刈谷のミッションなので、竜立元は島のはずれの断崖にある水源に案内する。刈谷を手伝う役目をもらった亀太郎はこれをステップに東京行きを目指す。文明人である刈谷は神聖な森の奥にある水源を発見、これを開発したほうが経済的だと判断した刈谷は竜立元を説得するが、のらりくらりとかわされる。

水源開発に対して徹底的な島民の妨害工作に嫌気がさしていた刈谷はちょうど女房との仲も険悪になっていたことも相まってトリ子とセックスしてしまう。職業的なセクシーをムンムンさせるウマには興味がなかった刈谷だったが、トリ子の野性美に一発で撃沈。島に来た目的もすっかり忘れ、南国の太陽にのみこまれていくのだった。刈谷は穴掘りを手伝うだけでなく、ついには根吉の家にいついてしまう。

根吉はまたもや密漁をして、ウマと情交したために島民から陰湿なリンチを受ける。その最中、巨岩が落下。あやうくぺしゃんこになるところだった根吉は間一髪セーフ。ついに足鎖を解かれ、ウマも返還されるはずだったが竜立元はグズグズとはぐらかす。

親会社から東京へ戻るよう、刈谷に電報が来る。ウマは予言の力をすでに失っていた。竜立元は根吉に嫉妬してウマを抱くが、祭りの最中に腹上死。水不足は深刻だわ、区長は急死するわ、台風は来るわ、すべては神の怒りを買った根吉の責任だと島民たちは囁いた。根吉はウマを乗せて、亀太郎が拾って修理したモーターを搭載した小船で島を脱出する。根吉が集めていたと思われる巨岩落下作業用のガンパウダー(米軍の忘れ物である薬きょう)による爆発事故が起きる。島の若者たちは亀太郎とともに二人が乗った小船を追跡。ついに追いつかれた根吉はウマを庇って無数のオールで全身をめった打ちにされ、頭をカチ割られて海に落とされてサメの餌食となる。ウマは赤い帆を張った小船に縛り付けられ漂流させられる。

5年後。刈谷を待ち続けたトリ子はそのまま岩になってしまった。一度は東京へ行った亀吉だったが今では島の観光用の汽車の運転士をしている。女房・扇千景とヨリを戻した刈谷が女房と義理の母親・細川ちか子を連れてクラゲ島にやってくる。聖なる森は観光開発され跡形もない。サトウキビ畑を走る機関車の前にトリ子の幻影が現れる。トリ子は昔と何も変わらず、走り去っていくのだった。根吉がなぜ殺されたのか、刈谷がなぜトリ子を見殺しにしたのか、亀太郎にはいまだに外海を漂っている赤い帆を張った船が見えている。

誰かを貶めて自らの地位を確立しようとすることを差別と呼ぶが、外界から遮断された人々にとっての欲求不満の捌け口として、または生き残る術として、村八分や口減らしというのは、その手段が変わり上手くごまかされているだけで現代でも脈々と生きている。村社会という構図は島国である日本の宿命であり、根源と言える。クラゲ島は日本社会の縮図である。

しかし刈谷のボーリング調査を手伝う島尻・小松方正やトリ子にズロース売りつけた洋品業者の比嘉・殿山泰司は十分にあきらめた大人なので、彼らと、おそらく画面に登場しない大多数の大人の島民は、島の祭事にもきちんと参加し、適応しながら、自らは変化も革命も求めず、与えられた環境を受け入れて平々凡々、昼になったら弁当を食べる。概ね傍観者として生きている彼らこそが大多数の日本人の姿。

5年後の島には独裁者も信心深い老人も聖地も消えていて、立派に観光地と化しているのだが、失われたはずのまたは思い出さないようにしているはずの神聖な何かの化身としてのトリ子を機関車が(もう一度)轢き殺してしまうところが印象深い。変わらぬモノと変わるモノの間を体験した亀太郎にとって、新天地を自力で目指した兄弟を叩き殺したトラウマは、革命者を惨殺した一人としての自覚。黙って彼は再び汽車に乗るしかないのである。どこかに今も漂っている革命者の小船に後ろめたさを感じつつ。

面白かったのはいざりの語り部、里徳里が前段では、「ムーミン」に出てくるスナフキンのごとく哲学的な存在に感じられたのに、島が観光地と化してからは、単なるイベントの小道具にしか見えなかったこと。変わらないのに、変わっていく、事実の確認。

それにつけても沖山秀子。刈谷恋しさにズロースが脱げそうになってケツモロで外洋を泳ぐその後ろ姿に、船から落ちた豚は速攻喰うサメも迫力負けして避けて通ったかのかと思った次第。洋服着てても全裸に見えるってのが凄い、そんな女優ほかに見たこと無いし。

2008年08月12日

【追記】

※本文中敬称略


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■日のあたらない邦画劇場■

file updated : 2008-08-12