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世界大戦争


■公開:1961年

■制作:東宝

■制作:藤本真澄、田中友幸

■監督:松林宗恵

■脚本:八住利雄、木村武

■原作:

■撮影:

■音楽:団伊玖磨

■編集:田中修

■美術:北猛夫

■照明:森弘充

■録音:矢野口文雄

■特撮:円谷英二、有川貞昌、渡辺明、岸田九一郎

■主演:宝田明

■寸評:ジェリー伊藤、日本語はダメダメだが英語は上手い(当たり前だがなんか新鮮)

ネタバレあります。


もう地球や東京は何度も滅びたような気がしないでもないが、本作品では東京丸ごと溶けて流れてしまうのである。実に強烈である。局地戦では炭化した死体が累々と並ぶ、近未来人類消滅映画。

良識と言うのは実体の無いモノだから、実態のあるモノに一押しされたらひとたまりもない。特に核ミサイルという最強の実体の前では。

プレスクラブの外人記者・ジェリー伊藤の運転手をしている田村・フランキー堺は戦後の焼け野原から裸一貫で生き延び、神経痛持ちの妻、お由・乙羽信子と三人の子供に恵まれてささやかに生きている。同盟国と連邦国の緊張が極度に高まる中、田村にとって戦争は「終わったもの」「二度と味わいたくないもの」なので、ましてや敗戦国の日本が再び戦争に巻き込まれるはずがないのである。遠い国の出来事よりも、家の二階に下宿しているのは外国航路の通信技師、高野・宝田明と長女の冴子・星由里子の仲のほうが田村にとってはよほど重大事なのである。

連邦国側のミサイル基地指令官・ハロルド・コンウェイは突如発令された発射命令に、神に許しを乞いながら押下した直後、それが機器の誤作動だと判明、あわや世界大戦争の開始となるところをギリギリセーフ。「Thank!GOD!」と思わず叫ぶ。その頃、反対陣営である同盟国のミサイル基地では些細な事故からほんのはずみで核弾頭が作動開始。発射基地にいた参謀・ハワード・ラルソンは危険を顧みず核弾頭の除去に成功。このように緊張が長く続くことで人々の神経は限界に達していたのである。

脆い平和は、我慢しきれなくなった小さなほころびから大きく決壊していく。

日本国総理・山村聡、外務大臣・上原謙、官房長官・中村伸郎、防衛庁長官・河津清三郎らは世界中に核兵器と戦争の停止を訴えるがすべての外交交渉は難航する。三十八度線で発生した戦闘はなんとか拡大を免れ、連邦国側のミサイル基地は歓喜する。しかし、その直後、ミサイル発射指令のランプが点灯する。今度は機器の故障ではなかった。

この映画に出てくる人たちは誰一人として戦争を望んではいない。戦争の命令は無味乾燥としたランプという人格の無い装置からのみ発せられるのである。その鈍い明かりの向こう側にいる人間には、週末の過ごし方を相談する前線の兵士も、もうすぐ結婚する娘のためにチューリップの球根を植える運転手も、子供のために住み込みで働く母子家庭のお母さん・中北千枝子も、眼中にはないのだろう。

「敵国の国民に無辜の民など存在しない。あらゆる人々が有形無形の戦争協力者だ。」日本に原爆を落とした人物の言葉である。これくらい思い切らなければ原爆なんか落とせない、と考えるのか、そういうことだから原爆を落とすのは当然だ、と考えるのか。いずれにせよ人が目の前で死ぬわけではないし、直接発射するわけでもないので落とすことを命令する人たちには痛くも痒くもないのだろう。

二十一世紀になってみると戦争を金儲け(ささやかだが)の好機と考えている田村と、前線から遠く離れて戦争を命令している人たちの思惑が微妙にシンクロしているところがブラックな気がしないでもないのである。戦争に対する感情や感傷は情報量や時代の思想によって変化するものであるから。この映画はずーっとずーっと観続けられて欲しいものだ。

連邦国側である日本の主要都市は、同盟国の報復攻撃の対象となり、東京の人々はパニック状態になる。交通網はマヒ(ただし自家用車の保有率が低いので鉄道など公共の交通機関が大混乱)、運転手だって逃げたいだろうから東京脱出の手段を持たない人たちで阿鼻叫喚の地獄絵図。ミサイル攻撃が確実となった東京は完全にゴーストタウンに。父母の迎えが来なかった子供達を一人守っている早苗・白川由美、高野を見送った冴子、そして、抗えない大きな力にまたもや生活を奪われる田村一家。その頭上に核ミサイルが迫って来ていた。

東京は一瞬にして溶鉱炉と化しすべてが燃え、蒸発し、溶けていった。東京には生きているものは一つとして無くなったのだった。

冴子はモールス信号で洋上の高野にメッセージを送った。無線機を見つめる二人。冴子の父、江原・笠智衆は高野と同じ船に乗船していた。核攻撃後、乗組員全員が放射能に汚染された東京へ帰りたいと言う。世界の主要都市が核攻撃で廃墟となった今、地球上のすべての生き物が放射能に汚染されていくのは確実なので彼らは死ぬために故郷へ帰るのである。大切な思い出を失った江原と、未来を失った高野の二人が流す涙も数千度の熱線が一瞬にして蒸発させてしまうのであろう。

船の上で江原が船長・東野英治郎と乗組員に白いカップでコーヒーを注ぐシーンは、なんだか特攻隊の出撃みたいで悲しくてしようがなかった。死ぬために飛び立った彼らとは逆に故郷に死にに帰るのである。子供みたいな若者たちをを死地に送る年長者の悲しみという点で共通しているような気がする。

繁栄を極める日本が冒頭に映り、その後の大崩壊へと繋がる。この絵柄の流れは「日本沈没」と似ている。そこには無常感があり、しかし「日本沈没」は天災であるし、日本だけが沈むのであるが、本作品は世界が炎上するので逃げ場なし。ついぞ米国の国防長官が自国の核兵器を評して「地球を四回滅ぼせる」と豪語したとき「後の三回は何をするのか?」と記者に問われてニヤリと笑ったときに覚えた恐怖。歴史は繰り返すのか?それとも普遍なのか?特に戦争に関してはその通りだと言うのが究極に悲しい。

2008年01月27日

【追記】

※本文中敬称略


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file updated : 2008-02-25