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生きている小平次


■公開:1957年

■制作:東宝

■製作:藤本真澄

■監督:青柳信雄

■脚本:井手俊郎

■原作:鈴木泉三郎

■撮影:遠藤精一

■音楽:佐藤勝

■編集:

■美術:北猛夫、清水喜代志

■録音:宮崎正信

■照明:岸田九一郎

■主演:芥川比呂志

■寸評:

ネタバレあります。


地方巡業中の芝居一座の看板役者、小平次・中村扇雀(二代目、三代目中村鴈治郎、四代目坂田藤十郎)が「番町皿屋敷」のお菊さんを熱演中。囃子方の太九郎・芥川比呂志は女癖の悪い男であったが現在、おちか・八千草薫という女房がいる。太九郎の「港港に女あり」というモテっぷりは相変わらずで、今夜も地方の女・中田康子と一緒に夜も街へ消えていった。これには座員のおたね・一の宮あつ子、役者たち・沢村宗之助丘寵児清水一郎今泉廉らも呆れている。

小平次はかつておちかとラブラブだったので、太九郎との結婚は周囲も完全に予想外、ようするに幼馴染の小平次の恋人を太九郎が略奪結婚したらしく、泣く泣くひっこんだ小平次としては太九郎ったら女と遊びまくりなのであきらめきれず、そんな扱いするなら俺にくれ、いやさ「返せ」と思いつめた小平次は太九郎を釣りに誘って小舟の上で直談判。返せといわれると返したくなくなるのが人の常、というわけで交渉はあっさり決裂。二人は争い、太九郎に突き飛ばされた小平次は水没して浮かんでこない。太九郎は必死に舟を岸に戻そうとするが突然の雷雨、右往左往する小舟の縁にしがみつく小平次の顔面に太九郎は思い切り板を振り下ろす。

江戸で太九郎の帰りを待っていたおちかのところに顔面に裂傷を負った小平次が現れる。小平次はおちかが恋しいので太九郎を殺してきた、一緒に逃げようと誘う。そこへ太九郎が帰ってくる。小平次と鉢合わせした太九郎はびっくり仰天して、おちかを譲ると言い出すが、おちかは小平次が嘘をついて自分を連れ去ろうとしたのだと思い、太九郎にすがりつく、頼られたらもう太九郎に迷いなし。「また殺すのか」という恨めしげな小平次の表情はマジで怖かったがおちかを連れ去ろうとする姿に逆上し小平次を脇差で背後から一突きにするのだった。

殺人カップルとなったおちかと太九郎は江戸を逃げ出し旅に出る。行く先々で小平次っぽい幽霊に悩まされるのは罪の意識が二倍(二回殺してるから?)な太九郎で、顔はすっとぼけているが不気味な宿の番頭・谷晃から「三人連れだと思った」と言われたときは本当に小平次が生きている、っていうか死んでも死に切れないから魂になって追っかけてくると確信し、まっ暗な浜辺をおちかと二人でダッシュ。しかしおちかは足が痛いの、疲れたのとブーたれて歩こうとしない。幽霊とおちかとどっち取るか?状態の太九郎は一人で歩いていく。置き去りだけは勘弁してほしいなおちかが太九郎の後を追う。

二人連れの後ろから、小平次に似た男の後姿がとぼとぼと続いた。

小平次は生きているのか?死んでいるのか?いつ死んだのか?何が現実で何が嘘なのか?この世にあるものが人間の頭の中にあるものだとするならば、おちかには死んでいる小平次でも、太九郎には生きている小平次なのである。

ほーら、怖いっしょ?1時間かそこらに凝縮された映画の大半は、おちか、太九郎、小平次の三人のみの台詞劇。新劇VS梨園VS宝塚。大多数の映画俳優は舞台俳優に比較すると滑舌が悪い、ゆえに音吐朗朗というわけではないけれど、この三人の台詞合戦に互いのフィールドの代表選手のような意地の張り合いを感じてしまう。人間国宝になってから名前変えた歌舞伎役者と、映画化にあたり父親の役どころに役者としては素人の弟へ先に出演交渉に行ったからってオファーを断ったり劇団作るとすぐに喧嘩別れしちゃった新劇役者。スクリーンの外から感ぜられる気性の激しさっていうか我の強さが、もう銀幕からプンプンしてくるわけ。

板の役者同士のプライド対決。

男性二人に負けじと、ってわけじゃないけど「かわいい顔してるけど結果的に悪女」な八千草薫が絡むわけだから、画面が異様なまでの緊迫感。やっぱ怪談映画はモノクロがいいよね、暗がりの恐怖、闇の凄み、顔立ちが立体的な三人が薄暗い室内で行き詰る様子は派手な仕掛けが一切なくてもかなり怖い。

これだけでも一見の価値あり、たとえ低予算が見え見えでも、意外すぎな拾い物。1982年に中川信夫監督で「生きてゐる小平次」としても映画化されている。そのときはATG。出演者が限定されているせいか?原作が低予算向きだと言えるかも。

2007年05月06日

【追記】

※本文中敬称略


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■日のあたらない邦画劇場■

file updated : 2007-05-06