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アカルイミライ


■公開:2002年

■制作:アカルイミライ製作委員会(アップリンク、デジタルサイト、クロックワークス、読売テレビ放送)

■制作:浅井隆、小田原雅文、酒匂暢彦、高原建二

■監督:黒沢清

■脚本:黒沢清

■原作:

■撮影:柴主高秀、森下彰三

■音楽:パシフィック231

■編集:黒沢清

■美術:原田恭明、北村道子

■照明:

■録音:郡 弘道

■視覚効果:リンクスデジワークス

■主演:オダギリジョー

■寸評:

ネタバレあります。


 一度でいいから、粗暴でも痴呆でもない、市井の市民な浅野忠信というのを見てみたい。さらに、藤竜也に男臭さも分別もありすぎるので優男のオダギリジョーと浅野忠信といっしょにいるとどことなくホモっぽく見えちゃうのだが、どうか?

 世代の断絶というのは如何物であろうか?本当に断絶などあり得るのだろうか?連続している時間を共有しているか、しないかの違いであって、それは単に時間の障壁を指しているのであってつまり断絶というのは差異ということなのではないだろうか?だとするならば、それを理由に事を起そうというのは単なる言い訳探しにすぎない。

 この映画には世代の断絶のパターンとその解消方法が繰り返し出てくる。徐々にそれは感傷的になっていく、黒沢清のなぞなぞ大作戦。

 おしぼり工場にバイトしている有田守・浅野忠信と仁村雄二・オダギリジョー。雄二はしばしば未来を予見する夢を見る。守は猛毒を持つアカクラゲを飼育している。ある日、おしぼり工場の社長、藤原・笹野高史がアカクラゲの水槽に手を入れるところを黙って見ていたことを咎められた守が解雇されてしまう。憤慨した雄二は社長の家に金属棒持参で特攻するが、すでに社長と妻・白石マル美は血の海に沈んでいた。

 守は逮捕された。離婚の後、5年間絶縁状態だった守の父、真一郎・藤竜也が面会に来るが何を話していいのかわからない。守は「行け」のサインを残して自殺してしまう。その夜、床下に流れ出たはずのクラゲが光を放って生きているのを雄二は確認する。守の遺骨を引き取りに来た真一郎に雄二は守の思い出を語る。

 雄二は真一郎が経営するリサイクル工場で働くことになった。ある日、行方不明になったクラゲが東京の河川のどこかで生き延びていることを知った雄二はクラゲのえさを培養し嬉々としてばら撒く。戸惑う真一郎はただ見守るだけであった。工場に守が現れ、培養装置をショートさせる。パニックになった雄二は工場を飛び出していった。

 雄二を失った真一郎は深夜のどぶ川でクラゲの大群と遭遇する。

 妹の婚約者、ケン・はなわの会社で雑用係として働くことになった守。深夜、ゲーセンにいた高校生たちと一緒に、会社に忍び込んだ雄二であったが警報装置が作動し高校生たちは全員補導されてしまう。逃げ延びた雄二は真一郎の工場に帰って来た。真一郎は「本当にここでいいのか?」と問いかけすべてを許し雄二を抱きしめた。

 増殖したクラゲが東京の河川に大量発生し子供二人が刺されて重傷を負ったニュースを真一郎に知らせまいとしてテレビのアンテナを破壊する雄二。クラゲの捕獲が始まり、真一郎と雄二は川に向かう。アカクラゲをわし掴みにした真一郎は倒れてしまう。嵐の中を進む雄二の夢は真一郎を助けるために人を呼びに行く姿なのであった。

 雄二が去った工場に守が現れる。真一郎は「いつまでもいていいんだよ」と声をかけた。

 雄二、守と真一郎との間に生じた世代の断絶は、おしぼり社長の家庭にも存在していたのである。若くてエロい妻とまだ小学生の娘を持つ50過ぎの社長は、守と雄二を掌握することで家族に生じそうな(嵐の予感)不和を防止しようとしたのである。そのために、社長は二人に経済的な安定を与えたり、CDを借りたり、昔話をして理解を示そうとしたのであるが、彼のそうした行為には何の愛情も共感もなかったことが、守を解雇したときに露呈する。

 擦り寄ることと許容することは違うのである。その代償として、断絶の解決方法の一つである「破壊」という回答を得た社長に対し、彼らに経済的な保証は与えられなかったけれども愛情と理解を示した真一郎は、もう一つの別の回答である「和解」を得た。

 海水でしか生息しないはずのクラゲを真水に馴れさせようとした守。

 クラゲを触ろうとして危険を察知して手をひっこめたおしぼり社長。

 海へ帰ろうとするクラゲを抱きしめて(掴んで)毒にあたった真一郎。

 その真一郎が歌う「星めぐりの歌」川面に広がる大量の光るクラゲは確かに銀河に見えないこともない。ふわふわととらえどころのない、しかも猛毒を持っているクラゲは雄二にとっての守であり、人魂のように見えるクラゲの大群は真一郎にとっての守でもあったようだ。

 若者たちは猛毒をもつクラゲなのだろうか?だとすれば、幼児に危害を加えて大人たちに害獣として駆除されるのが彼らの定めということになる。駆除されることを辛くも逃れたクラゲたちは東京を脱出するのである。戦いもせずに。

 今日も多くのクラゲたちが一つの方向に向かって歩いていく。革命をファッションとして身にまとい傍若無人、だがスタッフに守られて?彼らを無条件で受け入れてくれる大人たちはいるのだろうか?予測できない明るい未来は存在するのだろうか?

 たかが家畜の分際で自分の居場所を主張するクソガキどもを無条件で許容する社会は惰弱に過ぎると思うのだが、そうしたガキどもを飼育し懐柔することに苦労されている企業の管理職の方々には、守るべきインフラを持たない真一郎ではなく、家庭と職場を守る義務を負ったおしぼり社長にしみじみとシンパシーを抱くことであろう。

 大人はずるくて汚い、それを嫌って海に逃げてもそこはさらに塩辛いのである。

2006年04月20日

【追記】

※本文中敬称略


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■日のあたらない邦画劇場■

file updated : 2006-04-23