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はだしのゲン


■公開:1976年

■制作:現代ぷろだくしょん

■制作:山田典吾

■監督:山田典吾

■脚本:山田典吾

■原作:中沢啓治

■撮影:安承(王文)

■音楽:渋谷毅

■照明:山本嘉治

■編集:沼崎梅子

■美術:育野重一

■主演:三國連太郎

■寸評:

ネタバレあります。


 おそらく昭和30年代末期に生まれた筆者が、最初に出会った原爆と被爆者のビジュアルは「はだしのゲン」の漫画であった。妙にメリハリの利いた主人公の顔と言動の逞しさに比較して、溶けた蝋人形のような死体で埋め尽くされた川の描写や、「ぎぎぎ・・」という気味の悪い音声を残して生きながら焼死したゲンの家族の姿は悲惨とかそういうレベルを超えた激しい憎悪を連想させた。そういう漫画を全巻、図書室に揃えていた中学校だったので(あと、どういうわけか江戸川乱歩の「小人」「芋虫」も置いてあった)ある。

 いっぺん、図書の選択を担当していた先生にインタヴューしてみたいもんだが、少なくとも学校のイベントでただの一度も「君が代」を歌ったことが無い世代である。

 さて、漫画を原作にしたこの映画は、大半を主人公の父親である大吉・三國連太郎の描写に割いている。

 絵付けの職人である大吉と、母親・左幸子、勤労奉仕で工場へ行っている長男・箕島雪弥、学童疎開で難を逃れた次男・小松陽太郎、三男のゲン・佐藤健太、末弟・石松宏和、そして姉・岩原千寿子の五人の家族。

 軍事教練の最中にオナラをしまくって、軍人にへつらう町内会長・曽我廼家一二三によって特高に密告され逮捕され、取調べ官・草薙幸二郎江角英明の拷問まがいの取調べにも変節しない大吉のおかげで、この家族は町中から非国民呼ばわりされ激しいイヤガラセを受ける。ある意味、けなげな長男は差別を受けないようにするために海軍へ入る。

 いつもはルンペン役などで反体制を結果的に体現する梅津栄大泉滉がバリバリの軍国思想に染まった教師役というのが新鮮。大体、教育者というのは真面目な人が多いのである。差別は学校にも及び、いや、増幅されており主人公のゲンの姉は泥棒呼ばわりされて裸にされる。子供は大人の鑑なので、町内会長の息子に組みするクソガキたちがゲンたちが押す大八車を襲撃して負傷させるなど、陰湿なイジメがそこかしこに展開される。

 こういう一般庶民の、いわば無辜の民と呼ばれた人たちの戦争協力行為はともすれば無かったことにされがちである。だって戦争やってんだからさ、一致協力しないとダメで、そこには良心もヘッタクレもないわけで、「火垂るの墓」も同様だが食料というライフラインを抑えた百姓のがめつさは逞しくもあり、自然を相手に自給自足してきた人たちの自衛手段として当然なのかも。助け合いや施しといいうの、実行者によほどの余裕がなかれば実現しないものである。

 この映画はまた、当時、強制連行された朝鮮人のありようを描いた映画でもある。大吉を尊敬している朴・島田順司と一緒にいるところをクソガキたちに見られて罵られたゲンは「非国民と言われた上に朝鮮人と一緒だと言われたのではたまらんよ」とまで言い放つのである。この発言に一言も言い返せない朴の姿には相当の衝撃。

 ガラス屋・牧伸二から戦艦の模型をせしめるために町中のガラスを叩き割るゲン、おいおい、である。そして原爆投下の瞬間がやってくる。このあたりは意外なほどあっさりとしている。当事者としては何が起こっているのかさっぱりわからなかったのであるから、突然、目の前にさっきまで会話していた主婦の死体が転がっていてパニックを起すシーンにはどんなに精巧な特撮やCGでも描けない、普通の人にとっての生の原爆感なのでは。

 つぶれた家の梁に押しつぶされた父親、弟(姉は幸いな、観るほうの勝手な都合だが、ことに即死)を残して逃げるゲンと母親。皮肉にも商売道具のガラスを全身に受けたガラス屋の女房は苦しんで死んでしまう。なんとか逃げ延びたゲンと母親は焼け跡で女の子を出産、被害を受けず笑顔で夕食をとっていた百姓の家で米をもらうために浪曲を披露するゲン。玉音放送を聴いた母親は「天皇陛下様、なぜ戦争をはじめるのを止めてくれなかったのですか」と血を吐くように叫ぶ。

 ここまで左翼的で「はだしのゲン」はよかったのか?という疑問もあり、鼻白む場面もあるのだが、主人公の逞しさに相当、救われる。生きるためには神経を鍛えておけ、全身全霊をかけて生き延びろ。平和の尊さとかの説教とかじゃなくて、生きるヒントをもらえたの感。

2005年08月07日

【追記】

※本文中敬称略


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■日のあたらない邦画劇場■

file updated : 2005-08-08