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鬼婆


■年度:1964年

■制作:近代映画協会、東京映画、東宝

■制作:絲屋寿雄、能登節雄、湊保

■監督:新藤兼人

■脚本:新藤兼人

■原作:

■撮影:黒田清巳

■音楽:林光

■美術:新藤兼人

■録音:大橋鉄矢

■照明:菱沼誉吉

■特撮:

■主演:乙羽信子

□トピックス:

ネタバレあります。


 人間、一寸先は闇ですな。

 南北朝時代、兵隊にとられた息子の帰還を待つ姑・乙羽信子と嫁・吉村実子は芒ケ源という人の背丈ほどもある深い草むらに忍び、落ち武者・加地健太郎松本染升を殺して身包み剥ぎ取ると武器商人・殿山泰司のところへ売りに行き、わずかな雑穀類と交換して暮らしている。この母娘の、まるで屠殺の現場を見ているような職能的なプロシージャーからしてすでに何十人もこうして始末しているのだろう。つまりは息子なり亭主なりの不在はかなり長期間に及んでいると思われる。

 女二人のヴァイタリティー溢れる共同生活に、一人の男、息子=亭主と一緒に戦場へ駆り出されたが脱走に成功した八・佐藤慶が乱入したことで、ある意味、平和共存していた義理の母娘の間に波風が立ちはじめる。そりゃあんた若い男と女だもん、ヤル気満々だし。まして帰ってくるはずの亭主の死亡という情報がもたらされているわけだから誰に遠慮がいるもんか、というノリで嫁と八は姑が寝静まってから逢引を繰り返すようになる。

 嫉妬と、重要な働き手を奪われるのではないかという危機感から姑はこともあろうに八を誘惑するが「オマエみたいなババアと誰が寝るか」の一言で作戦失敗、女のプライドも大いに傷つけられた姑は、鬼女の面をかぶった位の高そうな武将・宇野重吉を死体遺棄用の穴倉に突き落として殺し、奪った面をつけて嫁を脅かすことにした。

 オッパイ丸出しでグースカ寝る女二人のあられもない姿、まるで女子高の体育会。中年期でありながらこの姑、さすがは天照大神を穴倉から誘い出した日本最初のストリッパーだっただけのことはあるな(「日本誕生」参照)。しかしよく映倫が「通した」もんだと思うのは当時にして、下半身すっぽんぽんで疾走する吉村実子である。だって見えてるんですけど?これ成人映画じゃないよなあ、とか思ったりなんかして。とにかく人目というのがないと人間は大胆になるもんだし、嫁にしてみればそのうち足手まといになるだろう婆さんと組むより馬力のある若い男と組んだほうが稼ぎがいいという読みもあって、姑が次第に疎ましくなってくる。

 豪雨の夜、鬼に追いかけられた嫁があわてて帰ってみると、あの恐ろしい鬼の面が顔からとれなくなった姑が泣き叫んでいる。「ざまあみろ、罰が当たったんじゃ!」とののしる嫁。ようするに「女ざかりの私をこんな原っぱで人殺しをさせてこき使いやがって!」ということなのだろう、若い娘は男ができるとかくも自信満々に豹変するのである。

 にしても姑の顔に貼りついた鬼の面、信心深いセガレ夫婦に意地悪した無信心な姑の顔から取れなくなった鬼女のお面が姑が改心したところであっさり取れた「肉付き面」という寓話があったけど、こっちの作品の姑は、嫁に顔面叩き割られそうになった上にアバタ面になってしまい二目と見られぬ顔に、つまりは見かけも思いっきり鬼婆になってしまう。ひょっとすると、あの、穴に落ちた武者は本当にこの世のものだったのか?怨霊の化身ではなかったか?

 姑は自分の顔がどれほど醜くなったのか知らぬまま、腰を抜かして逃げる嫁を追いかける。とにもかくにも人殺しをして生き延びようとした三人はそれぞれに不幸せになるのだからやっぱこれは殺された者たちの呪いなんだろうかね。だってさ、あの、うっそうとした原っぱの栄養源って、穴に落ちた死体の血肉じゃない?

 いくばくかの他人の犠牲なくしては人は生きていけないんだし、誰もがこの草原の三人のように先の見えない生活をしているわけで、人生の落とし穴なんてそこいらヘンにいくらでもあるんだよ、とでも言われたような気がしてくる。うーん、やっぱ怖いぜ、この映画。

2005年04月10日

【追記】

※本文中敬称略


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■日のあたらない邦画劇場■

file updated : 2005-04-10