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江戸の名物男 一心太助


■公開:1958年

■製作:東映京都

■企画:辻野公晴 、小川貴也

■監督:沢島忠

■脚本:田辺虎男

■原作:

■撮影:坪井誠

■音楽:高橋半

■美術:井川徳道

■主演:中村錦之助

■トピックス:「一心如鏡」を説く月形龍之介の口跡が素晴らしい。

ネタバレあります。


 筆者は時代劇大好きっ子であるからチャンバラは大好きだし、悪人が駆逐されるシーンにはカタルシスも感じるのであるが、たとえ作り物の世界であっても「人間の命」を大切にしている映画のほうが好きだ。

 市井の人であった太助・中村錦之助がどうして大久保彦左衛門・月形龍之介をいうバックを得たのかというと、将軍家光・中村錦之助(二役)の駕籠先に飛び出してあやうく無礼討ちになりかかった母子の身代わりになろうとしたのが目に留まったからなのだった。

 太助はかように、権力のために人の命がお手軽に奪われることを極端に嫌う。それはたとえ親分と慕う彦左衛門に対しても同様で、うっかり家宝の皿を割ってしまった新米の腰元、お仲・中原ひとみを彦左衛門が手討ちにしようとしたとき、残った皿の欠片を木っ端微塵にしてしまい「これでもう皿を割れる人はいない=犠牲者は出ない!」と啖呵を切って諌めたりする。常に命がけでスジを通す、そういうのは日本人が大好きな性質だから、太助のように駆け引き抜きの純朴な輩がそうしたパフォーマンスをしてくれると、もうそれだけで清々しく、また、心から応援したくなってしまうのが人情というものだ。

 魚屋になった太助は、「無知をからかう」都会人の冷たさというか、そういう態度にも敢然と立ち向かい、ようするに自分を馬鹿にした魚河岸の大勢・星十郎らを相手に大喧嘩する。駆けつけた大久保彦左衛門はこれまた立派で、太助を助ける(お、上手い洒落)だけでなく「喧嘩両成敗」の原則に基づき、太助一人を贔屓にせず、河岸の若い衆からも厚い信頼を得る。

 太助は、弱い町人をスリ被害から守ってやる一方で実は正体は大泥棒だった稲葉小僧・片岡栄二郎が引き回されていく行列に石を投げる人たちを制止し「今度生まれてくるときは真人間になってくだせえ」と人の善意を信じて応援する。また、雪道でエンコ(とは言わないか)してる婆さん・岡島艶子をおぶったときは「いつか彦左衛門をおぶってあげたい(「源義経」のときの恩返し?)」と泣かせる台詞を吐いたりする。いやー、もー、素晴らしすぎるエピソードが多すぎてとても紙面が足りん。

 おそるべし、沢島忠。

 そんな庶民のささやかな幸せ追及ドラマとは別に、幕府の内部では、旗本と外様大名の軋轢が徐々に深刻化。官僚的な(てか、それがフツー)の松平伊豆守・山形勲は、原伊予守・加賀邦男らと、若手旗本・三条雅也(小柴幹治)らと彦左衛門の老人パワーがいつか問題を起こすのではないかと気を揉んでいた。そこへ、旗本の近藤登之介・五味勝之介(五味龍太郎)の駕籠が大名の駕籠と接触し大乱闘へ発展するという事件が発生。外様大名の動きに配慮した伊豆守の裁定は近藤側に一方的に責任を負わせるものだったので、怒った彦左衛門はタライで城内入城というパフォーマンスをするが、家光に「伊豆守の立場も考えろ」と怒られてしまう。

 このシーンの月形龍之介がすごくいい!嬉しさと悲しさが相まって極まる様が絶品!無声映画の時代からやってた人はこういうところが上手い。

 可愛くてしようのない家光に怒られた彦左衛門は家光の成長をよろこびつつもショックで寝込んでしまう。太助は鷹狩に出ていた家光のところへ行き、このことを訴える。で、ここで家光が偉かったのは、腹心の伊豆守の態度を尊重し、すぐに彦左衛門の家に行かなかったこと。城へ戻ってから二人きりになったところで伊豆守に「政治には情けも必要だ」と説教し、プライドの高い伊豆守に恥をかかせないようにして、かつ、自覚を促してから、堂々と彦左衛門の家に見舞いに行く。

 家光がどんだけ立派な人になったかをちゃんと画面で見せてくれるからこそ、ドラマにぐんと厚みが増すわけだ。

 「一心太助」はこの後シリーズ化して娯楽色がどんどん強くなっていくんだが、それはそれでヨシだけど、この第一作における人間ドラマとしての知的レベルの高さは凄い。為政者としての心構え、正しい権力の使い方、人間の品格、情愛、親孝行、21世紀に観るべき映画の1本にぜひ加えよう。

2003年11月24日

【追記】

※本文中敬称略


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■日のあたらない邦画劇場■

file updated : 2003-11-24