天使の恍惚 |
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■公開:1965年 ■製作:若松プロ、ATG ■製作:若松孝二 ■監督:若松孝二 ■脚本:出口出 ■原作: ■撮影:伊東英男 ■音楽:山下洋輔 ■美術: ■主演:吉澤健 ■トピックス: ネタバレあります。 |
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この映画は観るのではなく、体験することをオススメする。なぜなら、何言ってんのかほとんどわからないからだ。 「自分の身体を張って闘えるヤツ、本気で孤立できるヤツ、個的な闘いを個的に闘える奴等、孤立した精鋭こそが世界を換える、世界を創る」というのが若松監督による本作品のテーマ。十九世紀後半のヨーロッパ革命で少数精鋭による暴力革命に失敗した「四季協会」という組織の名前が使われているところからも言いたいことはなんとなくわかるのだが、およそ21世紀に観る映画としては時代とのシンクロがあるようなないような、なんとも複雑な気持ちにとらわれてしまう。 革命集団「四季協会」の秋軍団は十月・吉澤健をリーダーに米軍から武器を強奪する。途中で発見された軍団の何人かは殺され、十月も視力を失う。せっかく奪った武器は月曜日・本田竜彦と金曜日・横山リエが暴行された挙句、冬軍団の二月・岩淵進らによって持ち去られてしまう。秋軍団の指揮官、秋・荒砂ゆきは冬・吉田潔とセックスし、冬と秋の統合を秋軍団のパシリである土曜日・小野川公三郎に指示するが、集団による革命を主張した土曜日に対して月曜日と金曜日がこれに反発、四季協会から離脱して個別に闘争を続けると宣言しアジトを爆破。 お手製爆弾(ピース缶が主流)で東京の各地で爆発事件を起こす月曜日と金曜日。秋軍団は解散し、秋は数人の男たちに襲われ、「個的な闘い」を絶叫した金曜日の車が荒野で大爆発。十月は雑踏の中に消えていく。 「気違いピエロ」を母体にした爆発シーン。現実に東京のあちこちで繰り広げられていた爆弾テロを東京の地でかろうじて知っている筆者としては、この作品にこめられたエネルギーが多少リアルに伝わってくるだが、なにせ今は21世紀である。大国が因縁つけて他国を叩き潰すことが平然と行われ、それに対抗する側には、金がないから自爆テロ以外に手段がないというこの映画なんかものかはな絶望感に覆われているので、なんとも「甘ったるい」ように感じてしまう。 おまえら、爆弾投げて逃げてるじゃん?と。 そして気がつくのである、この映画が作られた当時よりもはるかに人間が暴力に慣れてしまったことを。劣化ウラン弾の雨を観戦し、子供が子供を殺して焼くというトンでもない暴力の日常化。モノクロームに墨色の血飛沫がいくら飛び散ろうとも、それよりももっと過激な現実が繰り返されていて、そこには何ら思想もなく「ただなんとなく」だ。 思わず「昔はよかった、みんな大人だったよなあ」なんて呟いちゃいそうな自分が怖い。 70年代、学生運動が市井の市民と呼ばれる大多数の共感を得られず衰退していったさなかに作られた本作品。単に人生の教科書として通過するのもヨシではあるが、体制に抗うパッションというのは右でも左でも葬られるのが常だから、中には怖いもの見たさかもしれないが、説明不足に目をつぶって、観ようとせず、体験してみるほうがいい。 若松孝二監督には限られた場所しか与えられていない(それは商業的に、である)が今の時代をどのように捉えて作品を作るであろうか。寝かせておくには惜しいぞ。 (2003年07月06日 ) 【追記】 |
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※本文中敬称略 |
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file updated : 2003-07-06