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光の雨


■公開:2001年

■製作:シー・アイ・エー、エルクインフィニティ、衛星劇場

■製作:遠藤秀i、石川富康

■監督:高橋伴明

■脚本:青島武

■原作:立松和平

■撮影:柴主高秀

■音楽:梅林茂

■美術:金勝浩一

■主演:そうねえ、誰とは言えないわ

■トピックス:萩原聖人+雪山+虐殺=マークスの山


 暴力による革命を肯定したゲバ学生の一派が官憲に追われて流浪の民と化し、人里はなれた山奥で他の派閥と合流し集団生活をしながら目指した思想教育が高じて総括という名の虐殺(結果的に)事件に発展。

 思想的なリーダー・山本太郎は相棒となった女性闘士・裕木奈江とともにグループを離れ潜伏したが再び合流を試みて逮捕され、残された一団は立てこもり事件のあげくに全員逮捕。後に残ったのは犠牲者の累々たる死体と、あんだけ騒いだのになんだ、結果はコレかよ!という野次馬的失望感。

 30年前の革命物語を今さらに回顧。今その世代にいる人たちは社会の第一線から徐々に撤退傾向(強制排除含む)にあり、しかも豊かな老後はとうてい保証されないし、親の老後を看る最後の世代であり、子供に老後を看てもらえない(おそらく)最初の世代となりつつあるので、そらまあ人生の総括とやらしてみたいもんだと思ったのかも知れないけど、どうなのかなあ。

 あ、でもそれで作り手はいいのかな?キーワードは「わからない」だから。

 この映画は、全共闘世代の監督・大杉漣と、メイキングビデオ制作を担当している若い世代の監督・萩原聖人の目を通して、劇中劇の登場人物たちが「光の雨」という映画の製作風景(現実)と、製作される映画(虚構)を行ったり来たりするのだけれど、致命的な欠陥は俳優たちの演技がダサいこと。虚構と現実を往復する差異感、役に魅入られていくパラノイア的な芝居がどっちつかずのヘッポコなので、見ているうちにどんどんどんどん気持ち悪くなってくる。

 演技の重要なポイントは普通の若者らしく見せる「かぶきかた」が見えないところ。素人っぽく見せるための「人目の引き方」、人間観察力って言えばいいかな。それが全然感じらんない。したがって映画そのものが幼稚な自慰行為にしか見えない。

 て言うか、映画そのものに「かぶき」が足りなすぎ、エンタテイメント大好きっ子な筆者としては、女優の顔をぼっこぼこにして全然平気なセンスが女子高生コンクリート殺人事件を思い出してしまい嘔吐しそうになりました、です。そういえばアノ犯人たちの親の世代って…(以下省略)。

 最初に言ったけど原作者のナレーションがそのものズバリ。何も語っていない、わからなくてもいい、っていう姿勢がこの映画のすべて。けど、こんな状況でも萩原聖人と祐木奈江、異常世界で見事にかぶききっているんで、二人に救われたような気分。

 立松和平の最後のナレーション、あれ不気味。「(殺す方も殺される方も)みんな君たちと同じような若者だったよ」ってアレ。「太平洋の翼」とか「肉弾」見た人はラストシーン思い出すとね、ちょっと(いっしょくたにするのもナンですけど体感的に同じ匂いがするんで)筆者、どおしてもゲバ棒世代って肌に合わないんですねえ、負け戦を美化する先の大戦で若いものを唆した年寄どもとどこが違うのかよくわかんないんで、この映画見たらちょっとはわかるかと思ったらダメだったってことでした。

2003年02月20日

【追記】

※本文中敬称略


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■日のあたらない邦画劇場■

file updated : 2003-05-16