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善魔


■公開:1951年

■制作:松竹

■監督:木下恵介

■脚本:野田高梧、木下恵介(脚色)

■原作:岸田国士

■撮影:楠田浩之

■美術:浜田辰雄

■音楽:木下忠司

■主演:森雅之

■備考:三國連太郎のデビュー作、芸名もこの作品からとった。

ネタバレあります


 新聞社の新人記者、三國連太郎・三國連太郎は、上司の中沼・森雅之に呼び出されて高級官僚、北浦・千田是也の妻、伊都子・淡島千景の家出事件を追求するように命令されます。んな芸能レポーターみたいなことはちょっといやな三國でしたが、それでも色々と取材していくうちに、夫人の妹で病弱の三香子・桂木洋子と出会えたりなんかしてとうとうインタビューまでこぎつけます。

 実は伊都子夫人は中沼が学生時代に憧れていた美人で、伊都子のほうもまんざらでもなかったんですが、学歴も地位も名誉もある秀才OBの北浦と結果的には打算で結婚してしまいます。しかし、伊都子は今も昔も地位を利用して賄賂取り放題のお役人様である夫の品格のなさに呆れてプチ家出していたのでした。

 外圧に弱い編集局長・宮口精二ににらまれつつも、気骨のある中沼のほうはいまだに独身。別に純粋なわけじゃなく、女優の小藤鈴江・小林トシ子という愛人がいますが、お互いにドライな関係でいたいという自己都合を一方的に相手の心情を無視して押し付けていると言う、ある意味、こちらも打算的な人生を送っていたのです。

 そんなこんなで焼けぼっくいに火がついた中沼と伊都子はくっつきそうになりますが、危篤に陥った三香子と結婚式をあげようとした三國に付き添った中沼が、鈴江をまるで玄関マットくらいにしか扱っていない態度を目の当たりにした三國は、亭主をあっさり捨ててしまう伊都子とセットで二人の愛を非難するのでした。

 「悪に立ち向かうためには魔性を持った善が必要である」という劇中の中沼の台詞がこの映画の意味のすべてです。

 善魔たるのは当然、三國連太郎のはずですが、彼の行動は独善的で自分の考え方や理想に反する中沼と伊都子をボロカスにけなすと言う、ハッキリ言ってスゲーヤな奴です。善魔とは善と魔の適当な融合ではなく「善意の魔物」のことだったんですね。なんせ言ってることは正論でモラルに反したことは全然ないわけですが、人間のような複雑な生き物がそんな一方的なもので片付いちゃうはずがないわけで、結局、中沼も伊都子も幸せになれません、そう全部、三國連太郎がぶち壊しちゃったんですから。

 三國連太郎という芸名は本作品の役名から頂いたものです。「里見八犬伝」で「浩太郎」という役やったから里見浩太郎、「愛と誠」でデビューした早乙女愛、みたいなもんですね。

 さて、こういうストレートな熱血馬鹿野郎主人公は見てるこっちが気恥ずかしくなるもんですが、三國連太郎のうわずり加減の熱烈演技もさることながら、まわりが思いっきり引き立て役に回っているので結果的に三國連太郎はかなり役得、というか恵まれたと思います。

 北浦役の千田是也がとにかくいい芝居で、舞台の人らしい多少オーヴァーなところもあるのですが、編集局長の宮口精二とともに「いかにもいそうな俗物センス全開」という人物像をわかりやすく見せてくれるので、三國連太郎の「やりすぎ」な善魔をとてもよく引き立ててます。

 独善的な考え方を正義の名の元に振りかざしてしまうとき、矛先を向けられた相手は一方的に悪だと決め付けられてしまうんで、そいういうは皮肉にもマスコミの体質そのものであるのです。善魔を説いた相手に打ちのめされてしまう森雅之の職業がこの映画の皮肉な幕切れを一層、盛り上げます。

2001年08月26日

【追記】

 

※本文中敬称略


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■日のあたらない邦画劇場■

file updated : 2003-06-13