あの手この手 |
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■公開:1952年 ■制作:大映京都 ■企画: ■監督:市川崑 ■助監: ■脚本:和田夏十 ■原作:京都伸夫 ■撮影: ■美術: ■音楽: ■主演:森雅之 ■備考: ネタバレあります |
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朝日放送の連続ラジオドラマ、京都伸夫・作『アコの贈物』の映画化なので、正式(?)タイトルは「あの手この手・PRESENT FROM AKO」です。 大阪郊外に住んでいる万年助教授の鳥羽・森雅之は、女学校の教師で新聞の文化部顧問で売れっ子の身の上相談員である夫人の近子・水戸光子を「奥さん」と呼んでいます。傍目から見ても二人の関係は完全に奥さんがイニシアティブを取っている状況なので、同様に恐妻家だと自称する産婦人科の医師、野呂・伊藤雄之助はからかい半分にご同輩の自宅をしょっちゅう用も無いのに訪問します。 鳥羽家のお手伝いをしている鈴江・津村悠子は先生のところへやってくる雑誌の編集者やカメラマンの天平・堀雄二らを片っ端から未来のダンナ様と見込んでかいがいしく世話します。ある晩、近子の姪のアコちゃん・久我美子が家出してきます。アコちゃんは地元の養殖場の男性との仲を周囲に噂されたのを悲観して飛び出してきたと自己申告、鳥羽家に無理やり居候してしまいます。 アコちゃんは鳥羽家の主権をダンナ様に奪回させるべく、あの手この手でアプローチしますが大体、失敗に終わります。ある日、夫妻はたわいもないことで本格的な喧嘩をします。さすがに反省した近子夫人は鳥羽にあやまりますが、一度は怒って家を飛び出した鳥羽もすぐに戻ってきてしまい、二人はあっさりと仲直りします。アコちゃんは天平となんとなく上手くいきそうですが、実はアコちゃんが本当に好きだったのは鳥羽だったのでした。 幼い時に母親と死に別れ、婿養子の父親・南部彰三が祖母・毛利菊枝に頭が上がらないのを見せ付けられてきた娘がファザコンになってしまい、同様にふがいないと見えた冴えない中年男にのぼせ上がり、夫婦の危機を救うという大義名分で、ちょっとしたラブアフェアを期待したけれど、そこはそれヴェテラン夫婦の按配というやつにはとうてい太刀打ちできませんでした、というザックリと言えばそんな内容。 どっかで見たような映画だなあと思ったら、これ1937年松竹大船で小津安二郎が撮った「淑女は何を忘れたか」とシチュエーションといいオチといいそっくりなんですよね。 21歳のババアのくせに自分ことを「アコ」と名前で呼ぶようなお気楽馬鹿娘が、もし「また逢う日まで」の久我美子じゃなかったらモーゼルミリタリーかなんかなるべく大型の拳銃で撃ち殺してやろうと思った方もたくさんいたと思います(あ、筆者だけですか?)。のけぞって大口を開け大笑いする久我美子を見たら「壊れちゃったの?」と見てるほうがハラハラしてしまいます。 「倦怠気夫婦の立ち直り映画」(そんなジャンルあるんでしょうか?)と言えば小津安二郎の「淑女は何を忘れたか?」と岡本喜八監督の「結婚のすべて」。やっぱ中年男ってさあ「冴えない、ダサい」が相場だからラブロマンスを演じさせようとするなら上原健とか森雅之クラスじゃないと見られたもんじゃないんだなあ、としみじみ納得してしまうわけですね。映画として成立しない、と。 筆者はこの人見るといつも「没落貴族」っていうキャッチフレーズつけちゃいます。で、その森雅之ですが期待にたがわぬボサボサぶりで素敵です。黒澤明の「白痴」「羅生門」は正反対の役どころを演じて何の不思議も感じさせない俳優さんですからこういう軽妙な喜劇でも、わざとらしくオーヴァーにやってんのにすーっと入っていけるんですね。ちょっと「いそうな人」で実は「絶対いない人」こういうのやらせたらこの人は無敵ですね。 ドタバタと人が入れ替わり立ち代りするドラマですが、その中で圧倒的な存在感、というかイヤでも脳裏に焼き付くのが伊藤雄之助と、その猛妻・望月優子のカップルです。筆者が一番好きなのは、外では悪口とぼやきの連続なのに二人っきりになると相合傘してキッスまでしちゃうこの夫婦のスタンス。お互いの立場(て言うか自由、て言うか言いたい放題)を尊重しつつ「くっつく所はくっついている」それがドラマのメッセージであり最後にすっかり「もとどおり」になってしまう鳥羽夫婦&観客の皆様全体へのエールでもあるわけですね。 同様にぼさーっとした堀雄二が全然、垢抜けてないのもイイ感じです。そして観客の反感を買いまくりのアコちゃんもただの「ヤな女」に終わらせない演出もあるので、見終わって素直にほのぼのとさせられる映画になってました。 タイトルの「あの手この手」の頭文字(か?)を取ったのが「アコ」ちゃん、なるほど。 (2001年08月05日) 【追記】 |
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※本文中敬称略 |
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file updated : 2003-06-13