怒濤一万浬 |
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■公開:1966年 |
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主演俳優がプロデューサーというのは、監督としては相当にやりにくかったに違いない。演出の責任は監督だが、実際に金を出しているは三船敏郎である。「船頭多くして船山に登る」のたとえあり、やはり創造活動の現場に遠慮があっては妥協の産物にしかならないということか。 日本を出港して1年以上たつマグロ船、第八東丸は水揚げ量の不振で、カナリア諸島のラスパルマスの支店長・平田昭彦に呼び出された船長の矢野・三橋達也は本社から新任の漁労長が来ることを知らされてちょっとムカつく。 事務職あがりの村上・三船敏郎は船の装備に色々と注文をつけ、漁に出ても投網をなかなか実行しない。職人気質な矢野と血の気の多い乗務員たち・人見明、堺左千夫、小川安三、桶浦勉、宇仁貫三、上西弘次らは面白くない。学資稼ぎに船医として乗っていた津田・田村亮も作業に借り出されて船の雰囲気は最悪。 ところが一度投網するや他の船を圧倒する漁獲をあげる村上の手腕に船員たちも彼を信頼するようになる。ある日、津田の不注意でベテランの青木・佐藤允が負傷、二度と復帰できなくなる。責任を感じた津田は一度は落ちこんだが立ち直り、真面目に作業に取り組むようになる。 無線局長の岩田・中丸忠雄が傍受したSOSは、低気圧に突っ込んでしまったレジャー用のヨットからのものだったが、村上は網を切ってでも助けに行こうと主張する。命がけで救助に成功した第八東丸の網をスペイン船が見つけて届けてくれた。船員たちは海の男の友情に感激するのだった。 言葉の壁を超えた友情はケンカで成立、若者の挫折とめざめ、日本人看護婦・浜美枝とのほのかなラブロマンス、特別ゲストに世界的なフラメンコダンサー・小松原庸子も投入してエピソードと見所がなかなか多い大作映画。南欧の太陽が似合いまくる三船敏郎の男っぷりの良さはファンなら腰がとろけそうかも? 1962年、東宝と専属契約を結んだままで三船プロダクションを設立、翌1963年、三船プロとしての劇場用公開映画第1作「五十万人の遺産」を制作、三船敏郎は自ら監督し、1965年に東宝との専属契約を解消する。こんなご縁なので三船プロの作品には東宝の俳優が多く出演しているのだが、営業力においては業界ナンバーワンの同社のことなので中間マージンは決して安くはなかったようだ。 スペイン領カナリア諸島のラスパルマスは当時、日本の漁業基地であったから日本人には友好的だったと思うが、やはり海外ロケなので費用もグーンとかかってるわけで、実際、本作品は同じ年に先に公開された同プロダクション制作の「奇巌城の冒険」と2本撮り。だから三船はもちろん、三橋達也、佐藤允、中丸忠雄、平田昭彦、堺左千夫、浜美枝、らの出演者もほぼ共通している。 福田純監督はインタービュー書「東宝映画100発100中!映画監督 福田純」(ワイズ出版)の中で「三船が積極的に撮影機材を運んだりするもんだから他の出演者もそうなってしまったんだが、もっと芝居に集中して欲しかった。」と語っている。これは当時の劇場パンフレットにも撮影中の微笑ましいエピソードして紹介されているので事実だったんだろうが、これが一事が万事で作品の中でもみな三船に対して遠慮と言うか一目置いているようなところが出てしまい、そらまあ金出してんのも三船だし、また三船のほうでも妙に緊張しているような感じで、どうもピリッとしない。 几帳面で神経質な三船敏郎、なーんて見たくないっしょ?誰も。 海の男の友情とロマン、そんな壮大で男性的な映画になる予定だったんだろうが迫力があったのはスタジオでじゃんじゃん放水して撮った船上シーンくらいなもんであとは、どちらかと言うとおとなしい出来になっちゃったのが惜しいところだ。ただし、この嵐の中の救出劇はマジで凄い!普通の俳優ならぶっとばされるような水圧と水量の中で、最前線には三船のお友達の時代劇アクション専門集団七曜会(久世七曜会)が勢ぞろい。ただし船に弱い人は見るのやめたほうがイイ。 ところでこの映画のロケ中に中丸忠雄は今の奥さんをナンパ(って書くと怒られそうだが、経過をリサーチしたところこの表現が最も適切)したらしい。モテたのか?いや実はロケに参加している俳優の中でイイトシこいて(最年少の田村亮は除く)独身だったのが中丸忠雄だけだったってゆー話もあるので、真相は謎(ということにしとこう>本当にファンなんでしょうかね?筆者)。 (2001年05月03日) 【追記】 |
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※本文中敬称略 |
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file updated : 2003-06-08