ちいさこべ |
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■公開:1962年 |
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筆者は時代劇が好きだ。ということはとりもなおさずチャンバラ大好きっ子なのだが、本作品、チャンバラなしでほぼ3時間、まったく飽きずに大感動してしまった。 「ちいさこべ」は神話に登場する、蚕と子供を勘違いして大勢の子供を集めて大切に面倒をみた大臣の名前で、これが日本の「幼稚園」の発祥だと言われている。 単価の高い仕事でステータスを保ってきた大留の若棟梁、茂次・中村錦之助は大火のさなか、命と引き換えに父・山本礼二郎が守った金看板に泥を塗っては一大事と、独力で家業の再建を宣言する。腕も気風もいい職人たち・千秋実、織田政雄、和崎柳太郎(後・俊哉)、河原崎長一郎は、親戚筋の棟梁たち・東野英治郎からの援助すら断る茂次のかたくなな態度を心配する。 近所の長屋の住人たち・杉狂児、大村文武が茂次に仕事を頼んできたが、茂次は断ってしまう。茂次は長年の友人で、材木商の和七・東千代之介が好意でくれた金も借金でなければ受け取らないと言い出す。 焼け出された幼馴染のおりつ・江利チエミが拾ってきた浮浪児たち・伊藤敏孝を、茂次は捨ててくるように命じる。請け負っていた大商人・北竜二の茶室に放火された茂次は、人の情に見放された子供の末路を、遊び人の利吉・中村賀津雄に見て心を開き、子供たちが自由に暮らせる家を作ってやることにした。 尊敬する父親と、母親の愛情をいっぺんに失った主人公が一人になったとき、何度も母親の面影を夢想する場面の美しさと切なさ。子供は辛いときには父親を、悲しいときには母親を求めるものだが、そうした繊細な演技こそ、錦之助のもっとも優れた技量と魅力である。 けなげな江利チエミも、三人娘モノとは全く違う、母性と可憐さがあって素晴らしい。蓮っ葉な賀津雄も、この人はお兄さんと一緒だと本当にノビノビとしてるが、最後に見せた行き場のない寂しさゆえの行動に魂をゆすぶられる。 人の情というのは気まぐれだが、世間付き合いというのは好きや嫌いやではやっていけない。ここんところも実に現代的である。しかし、この映画は興行的に大失敗に終わった。 映画産業がすでに斜陽のとばくちにさしかかっていた頃、この作品が封切られた前後の錦之助は「宮本武蔵シリーズ」の真っ最中。この年、従来の娯楽時代劇路線から外れた本作品と、大島渚の「天草四郎時貞」は興行的に不振を極め、大・大川博・東映社長の逆鱗に触れた。大川社長は、休日に幹部社員を召集し「自己満足に終わるような映画を作るな、娯楽映画に徹せよ」という訓示をたれるほどであった。 大川博、目がねーなー、というんじゃなくて、およそ当時の錦之助に対して、本作品のような人情味溢れるキャラクターなど誰も求めていなかったわけで、以降、東映と錦之助との仲がしっくりいかなくなったというトンだオマケもついていた。 映画の価値が時代に大きく左右されるのは商業映画の宿命であるが、こうして時を経て、あらためて高く評価されるということもあるわけだ。本作品、今見ておくことを強くお勧めする。 (2001年03月25日) 【追記】 |
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※本文中敬称略 |
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file updated : 2003-05-16