回路 |
|
■公開:2001年 |
|
黒沢清の「大霊界・死んだらどうなる?」または「キュア」で壊れた刑事が「カリスマ」で現実逃避した森にも住めず町に戻ってみたら「回路」になってたんでとうとう海上へ逃亡、という話。 黒沢清の哲学ホラーはこの作品が最終章。 幽霊がこっちの世界を侵略するっていうネタで「ウルトラセブン」の「侵略する死者たち」(宇宙人が怪電波でで死体の魂をあやつる話、落語の「らくだ」に類似<嘘)思い出した人もいるかもしれないが、この映画を見てほとんどすべての人(もちろん「知ってる」か「観た人」だけだが)が思い出すのはジョージ・A・ロメロの「ゾンビ」だろう。 墓から蘇った元死者のゾンビから永遠に逃げ回るのと、あるいはちょっと食われてゾンビになるのと、どっちがいい?ってザックリ言うとそんな映画だ。「回路」に描かれているのはまさにこのセンスだ。 その小道具にインターネットが出てくるのだが、最も使いやすい手段で回路を開いていく、あっちの世界の人たちがこっちの世界の人たちと同類なので、ゾンビが生きていた頃の記憶をたどってショッピングセンターに終結するのと同じ。 物語は、パソコンでゲームしかしないようなお気楽馬鹿学生・加藤晴彦とほっといても自殺するような女・小雪のエピソードと、友達思いの直情女・麻生久美子の、まったく接点の無い二つの物語が同時進行して、それが一つになるところで終わる。 一応、武田真治が解説らしきものをしてくれるので、実はこの映画は一見、非常に分かりやすいのだが、どこで盛り上がればイイのか、どこで終わるのか、がはっきりしないため、つまりジャジャーンって感じがどこにもないので、相当に不親切だ。 生きていることと、死んでいること、は等しく同じで互いの世界を持っている。死者の世界はひどく孤独であるためかつて生者だった死者たちも、消滅するかまたは死者になってしまう生者も等しく「助けて」欲しいと思っている。そして、夫々の世界は有限であり、二つの世界のバランスが崩れて「回路」が開いたとき、どちらか一方は侵略者となる。 「生きることと死ぬこと」これこそ哲学の原点である。 映像について言えば、日本映画も含めて、デジタル技術を映像実験としてではなく、映画の表現手段としてきちんと使いこなした映画を初めて観たような気がする。 麻生久美子が働いている花屋の社長・菅田俊。筆者的にはこの人は「特捜ロボ・ジャンパーソン」に出てきた変身ヒーローヲタクの民間人・ビルゴルディなので、映画のテーマを理解しなかったはじめのほうでは、きっとコイツが真犯人に違いない!と思ってた、すいませんねえ、馬鹿で>筆者。 特別なゲストに哀川翔。 (2001年03月03日) 【追記】 |
|
※本文中敬称略 |
|
file updated : 2003-05-16