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CURE キュア


■公開:1997年
■制作:大映
■監督:黒沢清
■助監:
■脚本:黒沢清
■原作:
■撮影:
■美術:
■音楽:
■主演:役所広司
■備考:


 人はたやすく映画(つくりもの)には影響されない。多くの場合、影響されるのはむしろ映画のほうだ。

 連続殺人事件の被害者がいずれもマニアックな殺され方をしていたので、パニックを怖れた警視庁は事実を伏せて捜査を開始する。

 担当の刑事、高部・役所広司は、神経科医の佐久間・うじきつよしとともに、あっさりと逮捕された実行犯たち・蛍雪次郎でんでんらを尋問するが、これまた要領を得ない回答の連続、ただ、佐久間だけはこの異常な連鎖と、ある催眠治療のエピソードとを結びつけようとしていた。

 海岸をうろついていた記憶喪失の男、間宮・萩原聖人という人物を探し出した高部は、彼を取り調べるうちに奇妙な体験をする。高部が抱える不安は精神異常をきたしている妻・中川安奈へのストレスであった。

 人の心の不安に潜む、なにかドロドロとした感情=ストレスを発散させることは催眠治療の療法なのだろうから、本作品のタイトル「CURE=治療する」は映画のテーマそのもの。もちろん外科的な意味ではなく、精神の癒しということだ。

 萩原聖人は「教祖誕生」発「マークスの山」経由「キュア」着、というステップ・バイ・ステップな壊れ方をしているわけだが、なまじ外見が十人並みなだけに全身からかもし出す生活感というのが恐怖をそそるんだろう。だって、ね、役所広司が壊れたって別に?とか思うもの。三國連太郎ならなおさら、引き合いに出すなってば>筆者。

 18世紀の催眠療法師が登場するフィルム、奇妙に消された顔の意味は、伝道者になりえたものが、何者でもない者になるからで、彼が謎解きをするシーンにある「僕はもうからっぽだ」という台詞が説明しているし、たぶん何代目かの伝導者かまたは初代の伝導者、いや元祖が誰かと言うことすら無意味かもしれないが、蝋管の蓄音機からただ一言はっきりと聞き取れる「癒せ」が伝導者への最後の暗示、呪文なわけだ。

 間宮が警察の幹部連中をみて「つまらない連中だ」とつぶやく理由は、そこには癒されるべき対象が一人もいないからである。このことから、彼にとって癒しは善意でもなんでもなく一種のゲーム性をもっているのであり、つまり萩原聖人はなんら同情すべきところのない確信犯だとわかる。

 不確実なラストシーンは、明快なエンディングではないだけに不気味な余韻となって見るほうにトラウマを生じさせる。ある程度、読める、いや、読めたとしても人の心の闇をそっくりと取り出して見せつけるような悪趣味が強烈だ。

 映画としては怖くないって思うけど、ストレスが原因で「切れる」、カルトな殺人事件、酒鬼薔薇聖人と名乗ったあの事件が発生した1997年の制作である。時代の「今」を切り取るのが映画なのだから、ある意味、この映画の誕生は必然だったのかもしれない。

2001年03月09日

【追記】

※本文中敬称略


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■日のあたらない邦画劇場■

file updated : 2003-05-16