生きたい |
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■公開:1999年 |
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原作と監督が新藤兼人、主演が三國連太郎と聞いてはぜひ見ておかねば!おまけにタイトルは「生きたい!」である「生きる」でもなく「どっこい生きてる」でもない、生きていたいというのだ。今日の高齢者が直面している切実な声が聞こえてくるようではないか。てか、リアルすぎるのかもしれないが。 1983年、今村昌平の「楢山節考」が大島渚の「戦場のメリークリスマス」を蹴散らしてカンヌでグランプリを受賞。同じように姥捨て伝説をベースにした本作品は1999年モスクワ国際映画賞でグランプリを受賞した。こうしてみると「老い」というテーマは万国共通、と言うか人類共通の「関心事」ということか。 あるところに頭は普通の老人だがシモの始末がゆるくなっている男、安吉・三國連太郎と、今年で40になる躁鬱病の女、徳子・大竹しのぶがいる。二人は親子である。徳子は安吉を「馬鹿オヤジ」だの「結婚できないのはお前さんのせいだ」など正直すぎる発言を人目をはばからず連発、と言うか絶叫する。 安吉の妻は自分から老人ホームへ入っている。安吉はバーのママ・大谷直子と懇ろになっていたが、この女はとことん性格が悪いのでボケてきた安吉をとっとと見限り、あまつさえ粗相をした安吉を人間あつかいしないのである。それでも性欲と食欲は貪欲な安吉は通いつめるので徳子の躁鬱は絶好調。 徳子はできればこの厄介なオヤジを病院にでも引き取ってほしいと思っているが医者・柄本明には相手にしてもらえない。妹は早々に家を脱出し、とっくに家を出てしまった弟は父親に結婚式に出ないように頼みに来る。 物語は父親が病院の待合室から失敬してきた「姥捨て」の昔話と現実の世界が対比されるように進んでいく。昔話では老いた母・吉田日出子が息子・塩野谷正幸に嫁・中里博美をもらい、満足して山に捨てられる。心配して戻ってきた息子を追い返して雪に埋もれる母。 老人ホームを姥捨て山と同じだと考えていた安吉は自分から進んでホーム行きを決意する。そして一人残された徳子は、、、、。 まあこのあたりは一応、なるほどなあという安堵感に包まれるラストシーンに突入するかと思いきや、最後はトンでもないことになるのであった、、ってここ書いちゃうとツマンネーので、ひ、み、つ。 三國連太郎といえば画面に登場するや否や暑苦しいくらいの存在感を示し共演者を食いまくる、「ひかりごけ」では本当に喰ったが、のであるが、相手が大竹しのぶではそうは簡単に問屋がおろさない。 だって、しのぶちゃんたらこの道一筋? 徳子の親友は宗教にハマったトモコ・宮崎淑子(美子)で二人がデパートの喫茶室で大声上げてハシャぐところなんか見ているこっちが思わず息を殺して席を立ちたくなるような恐怖感に包まれるのだ。 これってSFホラー映画だったのか? 現実であるはずの安吉と徳子の日常には現実感が無く絵空事のようである。姥捨て民話の空想の世界には生々しい現実がある。それは今、老人が置かれている現実において、姥捨て民話の方に真実があるということなのだろうか。 「姥捨て」民話のシーンには村のじじい連中・江角英明、下飯坂菊馬、うえだ峻、須賀不二男。村長に津川雅彦、その情婦みたいな女に渡辺とく子が出ている、残念だが脱がん。そのかわり中里博美が脱ぐので我慢するように。病院の院長・観世榮夫、老人ホームの所長・麿赤兒。おまけにうばすて駅の駅長・馬場当。 救われないような救われるような不思議な映画だが、ただ老人ホームでとっても可愛いおばあちゃん・原ひさ子がいて、ああ、私も大竹しのぶや宮崎美子(が演じるキャラクター)のようなアブナイババアではなく、みんなに愛される可愛い年寄になりたいものだ、とそこだけは激しく共感したのだが、どうか? (2001年02月04日) 【追記】 |
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※本文中敬称略 |
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file updated : 2003-05-16