深い河 |
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■公開:1995年 |
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学生時代に苦い思い出を抱いている成瀬美津子・秋吉久美子は自分の心を満たすモノをもとめてインド旅行ツアーに参加する。 同様に、戦友・三船敏郎の妻・菅井きんが語った戦中の体験を慰めるために参加した木口・沼田曜一。病死した妻・香川京子が転生した少女を捜し求める男・井川比佐志。プロカメラマンになるために妻・白井真木と一緒に参加した三條・沖田浩之。 美津子は大学でクリスチャンの大津・奥田瑛二を弄んで捨てた。その後、ヨーロッパで大津に再会した美津子は、改めて大津に自分の満たされぬモノを求めるようになった。 大津はインドに来ていた。離婚し三度目の出会いを果たした美津子は安らいだ気持ちになりガンジス河で沐浴をする。大津が事故に遭い危篤状態だと知らされた美津子は彼を看取るためにインドへ残った。 後年になって見た観客にとっては、この映画の中で死の予感をひしひしと感じさせるのが三船敏郎と沖田浩之です。これはノンフィクションでありますから、作り手の意思を尊重するならば邪道な見方と言えますが。 三船敏郎は、撮影時、ワゴン車をセットの中まで乗り入れるという気の使いようを納得させる姿です。相手の芝居に合わせるということもほとんどできない状態で「あなたは何をしていたんだ!」と詰問される場面では「俳優です」と答えてしまい現場をフリーズさせたくらいです。それでもなお威厳のある姿を留めんとした作り手の苦労は気の毒すぎてツライものがあります。 三船敏郎の死が予測されたものであるのとは対照的に、登場人物の中で、最も生気にあふれた沖田浩之が、後年、自ら命を絶つなどどとは本人も含めて想像だにできないわけですから、そうした突然襲い来るものとしての「死」のリアリティが、これまた痛々しく見えます。 こうしたオマケの感慨を、ヒシヒシと感じ取れるのに対して、肝心の本編部分についてはいくつか疑問がわきます。 まず、葬儀の場面を写真に撮ることが人の命に関わるほどの重さを持つという主張は、で?なんで映画で撮ってもいいわけ?という素朴な疑問を生んでしまいます。これは女神像にも言えてる事ですが。 また、ガンジス河に浮かぶ亡き妻の面影、これに至っては、悲しい場面のはずなのになぜか大笑いしてしまいます。唐突すぎるからです。 こうした破綻の幾つかが最後までモヤモヤしてしまうため、秋吉久美子が体当たりでガンジス河に入っても、筆者は全然盛り上がれませんでした。ま、オン歳××の「女子大生」なんてのはモウSFの領域だったので違う意味で感動しましたが。 映画そのものは「死」を見つめることで「生」を考えさせる宗教的な内容であるわけですが、フィクションよりもノンフィクションの部分が奏効してしまったという、なんとも皮肉な映画でありました。 (2000年11月12日) 【追記】 |
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※本文中敬称略 |
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file updated : 2003-06-04