陽炎座 |
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■公開:1981年 |
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大正末年&昭和元年、作家の松田優作が、中村嘉葎雄の女房だか愛人だかなんだかよくわからない大楠道代と出会って、しかも大楠道代が何人も出てきて、死んだはずの楠田枝里子が成仏できずにこの世を彷徨ってて、金沢に行ったら子供芝居が上演されていて、いろんななぞなぞが解決する寸前に、芝居小屋が崩壊して、中村嘉葎雄が自殺したらしくて、ほいで松田優作も死んじゃったらしくて、最後に沖山秀子がほうずきを食ってた。 ほうら、なにがなんだか分かんないでしょ?「ツィゴイネルワイゼン」も、いやそれより前の「殺しの烙印」でも、このつくり手の映画は詩情があふれててビジュアルが濃いもんだから、ストーリィーがわけわかんなくなっちゃうのですよ、私の脳みそではおっつかないという状態。 しかも字面にすると、もっとちゃんと書ける人ならちゃんと描けるんでしょうけど、正味こんだけ?なのが実に2時間半も続くわけで、普段頭使わないで映画見てる客(私ですが)としてはなんだか風変わりな拷問受けてるようで、しかもそれが段々馴染んできてしまい、ちょっと私ってマゾ?という危ない方向へ誘われてしまうのです。 どうしてここまでオプチカル技術で頑張れるかなあ、と金払って見る側にもかかわらず映像スタッフの根性には頭が下がってしまいます。おそらく作るほうも見るほうも、一種のラリパッパ状態になる、というのがこの映画の肝じゃないでしょうか、楽しく見るための。 出てる人はどうかというと、松田優作はあいかわらず客をほったらかしにする狂演だし、東映時代劇の黄金期後は押し出しの立派さと現実離れした外形の美麗さを悪用され気味の大友柳太朗は「男女のまぐわいを内臓した仕掛け人形」作家の師匠というヘン系の人物だし、原田芳雄がその弟子というかファンというかそんな関係の人で相変わらずボサボサした謎系だし、中村嘉葎雄は期待通りの職人芸的ファンサービスに徹してるし。 大楠道代は行っちゃってるし、楠田枝里子はいつものとおりサイボーグ系だし、沖山秀子は××××(自粛)だし。 つまりはこの映画、ビジュアルには難解さと芸術性をフルパワーで発揮しつつも、役者のほうは固定したキャラクターでヒネリがほとんど無いんですよね。 これは客側の好みの問題なんでしょうけど、トータルで映画的な面白さがこの作品からはあんまし感じられないんですよ、私としては。いくら美術や絵作りで凝ってもらっても、所詮そういうのって死んだモノでしょ?作るほうと見るほうの思い入れはともかく、生きモノである役者から発信される情報量があまりにも少なすぎて途中で飽きちゃうんです。 大正末期、昭和元年という時代の変わり目に根ざした、ふにゃふにゃした感触とか、デカダーンな雰囲気を楽しんだり、見るほうが映画に自我を対峙させるような哲学的な心持で見てれば映画にのめりこめるんじゃないかな?とは思いますが、そうはなれない客(私ですが)としては綺麗だけどツマンナイ映画、というのが正直な感想でした。 (2000年05月01日) 【追記】 |
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※本文中敬称略 |
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file updated : 2003-05-16