時雨の記 |
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■公開:1998年 |
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映画の客はときとして、ありえないことを想像する。例えばかつて「愛と死の記録」という映画で共演した二人の俳優がまったく別の作品で共演したとき、ふとかつての作品を重ね合わせて見てしまったりするのだ。それは製作者の意図である場合とそうでない場合とがある。この映画はそうした客の思い入れを巧く利用している。 大手開発会社の重役・渡哲也は、先代社長(石原裕次郎じゃあナイです)の葬儀の席で偶然見かけた女性・吉永小百合と二十年ぶりに再会する。その日から渡哲也は頻繁に吉永小百合の自宅(北鎌倉)へやってきたり、彼女を東京に招いたりして恋人同然のつきあいを始めた。 渡には妻・佐藤友美、息子・ 原田龍二がいたが、吉永は未亡人。ある日、狭心症の発作で倒れた渡はその事を隠して、吉永と二人で京都へ旅行する約束をするが旅先で再び倒れてしまう。その後、しばらくして渡は吉永の家で何度めかの発作を起こしてあっけなく死んでしまった。 生前、渡から頼まれていた二人の「終の住み家」の図面は渡の親友・林隆三の手から吉永小百合に手渡された。彼女はその図と渡との思い出と一緒に一人で生きて行く決心をした。 ハイ、おしまい。 これだけ?そうなんだよねえ、これだけなのよ、この映画。笑っちゃうでしょう?中味スカスカっぽいっしょ?要するに熟年者の不倫映画なのよね、いくらなんでも今どき渡哲也と吉永小百合で、二人の歳を足したらいくつになると思ってンの?賞味期限切れの青春ゴールデンコンビで客入るわけないじゃん。 、、なあんて思って観てない人はスッゲー馬鹿だね。 「マディソン郡の橋」のパクリ?とか思ってる人も大ハズレだね。あんなみっともないデブとショボクレの頭の悪い映画と一緒にしちゃダメよ!って今、世間を敵に回したような気がするけど、気にしないでくださいねえ「マディソン〜」ファンの皆様、ま、個人の見解ということで、ね、ひとつそこは(スリスリ・・・手をすり合せる音です)。 実際はね、デブ、ハゲ、アブラ、クサイ、ブス、という見てくれで全人格を定義されちゃう世の中だから、オジサンとオバサンが奇麗に恋愛するのは無理?と思うでしょ。渡哲也と吉永小百合だから映画として成立したって言えるんだし。そういう意味ではアメリカ映画のほうがリアルで、客のシンパシーは得られるんだろうけど、だから良いのかって言うと、違うんじゃないの?と思うわけ。 恋愛映画、メロドラマは奇麗じゃなくちゃダメなのよ、私としては。 この映画は奇麗よ、本当に、男も女も山も街も花も木も。あ、そりゃ木村大先生のキャメラだもんね、どんなジジババでも奇麗に撮るからね、だけどそれだけじゃないのよ。話がね、とにかく奇麗なの。純情でね、余計な事が全然なくて。何もしない良さっていうのかな。 でもさー不倫はやっぱバツだと思うよ。だってさ妻子ある男性が素敵に見えたとしたらそれの功績、って言うか、その魅力は夫婦の共有財産じゃない?いくらかは。小百合ちゃんが「素敵」と思った渡哲也は、佐藤友美が丹精込めた作品の一部なわけよ、家庭持ってる人の安定感とか、だってデートの費用だって時間だって、結婚して得られたステータスの結果でしょ? 渡哲也が吉永小百合に送った焼ものを佐藤友美が庭石に叩き付けて割るシーンがあったけど、あれって分かるよねえ、許せないもん。佐藤友美がわたそうとした金は、渡哲也と吉永小百合との思い出の買い取りが目的だったわけで、手切れ金ってそーゆーもんでしょ?、それを受け取らなかった女には少なくともカタチの残るものなんか一つもくれてやるもんか!って女房なら思うハズ、当然、ね。 それでもヒロインみたいな余生の過ごし方がイイなって思えるのは、ズバリ、彼女がもう立派なオバサンだからなのよね。だってもう未来なんかたかが知れてるでしょう?そしたらもう反省ばっかしててもしょーがないし、焦ることなんかなくて、向上心とかそういうものとは無縁でね、つまり無欲で過去の思い出に浸っていられる余生って最高かも?と思うわけ。 昭和天皇崩御に至る昭和の時代がフィードバックされるところから見ても、この映画は渡哲也および吉永小百合と同じ年ごろの人達を意識した作りになってんだけど、確かにドラマチックじゃないけれど静かなシーンにときどきハッとさせられて、オジサン、オバサン、今からでも遅くないから死ぬまでに「素敵な思い出」を作るためにがんばろう!って思えるようになっている。 いい映画でしたよ、コレ。 (2000年01月30日) 【追記】 |
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※本文中敬称略 |
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file updated : 2003-05-16