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極悪坊主・飲む・打つ・買う


■公開:1971年
■制作:東映
■監督:斎藤武市
■助監:
■脚本:本田達男、志村正浩
■原作:
■撮影:
■美術:
■音楽:
■主演:若山富三郎
■備考:飲む、打つ、買う、の「打つ」は博打の意、クスリではない。


 明治の初め、極悪坊主の真海・若山富三郎はやくざに絡まれているアベック、とは言わんかこの頃は、女郎と優男・石山律を助けた。石山はホームレスや凶状持ちのたまり場になっている元大名・徳大寺伸の屋敷をねぐらにしている。

 真海はそこでお色気壷ふり・八代万智子のいかさまを見破って、いつもの通りラブラブな一晩を過ごした後、いつもの通り財布を失敬されてしまう。石山が仲間を誘ってへタカリに出向く。そうとは知らない真海はそこで石山の実の姉・北林早苗に出会って一目惚れする。

 その頃、悪徳警察署長・遠藤辰雄、政府の役人・渡辺文雄と結託したやくざの組長・安部徹が、地元の運送業をたばねる顔役・志村喬になんやかやと因縁をつけて鑑札を取り上げてしまう。怒った真海は宿命のライバルの了達・菅原文太に事情を説明して決闘を保留にしてもらい、八代万智子と組んで、渡辺文雄の家の舞踏会に紛れ込みまんまと鑑札を取り戻す。

 最初は余裕のよっちゃんのくせに追い詰められると卑怯な手口も全然平気な安部徹は、志村喬を暗殺。志村が、勘当していたやくざな息子・待田京介との和解直後の悲劇、復讐に燃える待田京介を制して悪者どもを全滅させた真海は、了達との対決の場に急ぐが、そこに了達の姿は無かった。

 三島ゆり子とか八代万智子とか、デブと言うのは失礼なので「豊満なお色気」な女性たちとのカラミが多い若山富三郎ですが、やはり体力には体力ということでしょうかね。同じデブでも梅宮辰夫のようにねっとりとカラミつくような、大人のスケベが感じられない、少年の魅力です(そうだろうか、、)。

 真海によって盲目にさせられ復讐のために彼を追い回す、執念の鬼である了達が、弱きを助け強きをくじく真海の姿を見てそのハードな心がすこしづつメルトダウンしつつあるようで、実際のところは単にアクションシーンがシンドクなっただけ、とか、頭に血がのぼった若山富三郎が本気でドツいてくるのでいいかげんヤになった、とかいろいろ想像はできるわけですが、ま、そんなことはともかく。

 今回の極悪坊主はなかなかの知能犯です。役人はいつの時代でも俗物ですから、真海は将軍に化け八代万智子をブルジョワ娘に変身させて、偽の結婚話で渡辺文雄を騙してしまいます。もうあからさまに嘘臭い三文芝居ですが、そういうのを素直に楽しむのがこの、極悪坊主、というか若山富三郎の映画を見るために客に要求されるスキルです、体得しましょう。

 明治維新に取り残された人たちが、自分達のために体をはってくれた真海のピンチに立ち上がり助っ人に走ります。「ドめくら!」呼ばわりしたやくざをボコボコにしてしまった了達ですが、掃き溜め屋敷の住人達に「化け物!」と言われてもだまって立ち去ります。

 かように、極悪坊主の人気の秘密は、どんなに乱暴でスケベで馬鹿でも真海が決して弱いものイジメをしない、というところにあります。それは了達も同様で、 この二人の暴力の鉾先は常に「強いもの」に向かっています。

 正義とか自己犠牲とかをこれみよがしにしないところが、極悪坊主映画の偉いところです。それをカヴァーしてしてあまりあるお下劣とお馬鹿。若山富三郎の、見る者全てをトランス状態に追い込むような曲芸の数々は映画の演じ手と作り手の捨て身のサーヴィス精神と奥ゆかしさの賜物かも知れませんね。

2000年03月17日

【追記】

※本文中敬称略


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file updated : 2003-05-16