ひかりごけ |
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■公開:1992年 |
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北海道の羅臼を訪問した小説家・内藤武敏は小説の取材中、地元の中学の校長・三國連太郎の案内でひかりごけが生息している洞穴に案内される。校長は太平洋戦争中に起きたある奇妙な事件について話し始めた。 4人の漁師・奥田瑛二、田中邦衛、杉本哲太、三國連太郎(二役)が乗った輸送船が厳冬の岬沖で座礁した。命懸けでその洞窟に泳ぎついた4人のうち、飢えと寒さに耐え抜いて3ヵ月後には船長である三國連太郎だけが無事に生還したそうだ。 船長は当初、羅臼の人々から尊敬を集めていたが、ちょうど5ヵ月後、木箱に奇麗に収められた人骨が浜辺に流れつき、それが奥田瑛二のものであることが分かってからは、周囲の態度は一変し、船長は生き延びるために殺人をしたのではないかと疑われ、逮捕されてしまう。 法廷に引き出された船長は「私は人を食べたことも、人に食べられたこともない者から裁かれても、裁かれた気がしない」と証言した。 映画は死んだ乗組員の亡霊も加わって、この法廷のシーンが主となって、事件の全容が船長の口から語られる回想シーンにより進んで行きます。 ハイ、ここで「赤いテント」を思い出した人(私ですが)がかなりの数いるんじゃあないでしょうか。ピーター・フィンチが極地探検に行って遭難し、救援機にただ一人乗って生還して救助を依頼したのは良かったのですが、救助隊が二重遭難してしまい、フィンチ以外はみんな死んでしまう。で、フィンチが罪の意識に苛まれて死者たちに裁きを受けるという話です。 「ひかりごけ」という題名は、人を食った者はその背後にオーラのように緑色の後光がさす、ということからタイトルになっていて、そのシーンは映画の中にも登場しますが、それがあまりにも唐突なのでちょっと面喰らいます。 で、どうも最後まで「なにが言いたかったのか、分かりそうで分かりにくい」映画なんですね、これ。 その原因は「三國連太郎が人食いしても別に驚かない」という事だと思います、え?それって私だけですか?ま、それでも別にイイんですが、これが何かの間違いで、船長役が加藤剛あたりだったら腰抜かすと思うのですが、どうでしょう?演るワケないだろーが!と言うことなんですが、そりゃそうだ、つまりそれくらいインパクトがないと何がなんだか?なんですね、私としては。 作者としては、戦争というものが作り出した極限状態での人間の「生」に対する執着、行動を平生の生活を送る人々に裁くことができるのだろうか?というあたりなんだろうな、とは思うのですが、その「異常さ」が三國連太郎からは感じられないんですね。だってもともと異常(な役どころが多い)じゃん?ってことで。 ただ、人喰いをしてしまった事に責任を感じて海中へ投身自殺しようとした奥田瑛二を「モッタイナイ」と言いながら止めようとして、船長が偶発的に殺してしまうシーンには圧倒されるものがありました。生きられる命を無駄にしようとしている(ように思われる)者と、生きようと必死に(文字どおり)になる者の直接対決。ここんところだけが、グッと考えさせられて船長のポリシーとぴったりコンタクトできた唯一のところです。 最後、生者である裁判長・笠智衆、検事・井川比佐志、弁護士・ 津嘉山正種、それに被害者の遺族、そして死者たちに見送られて洞窟の奥へ船長が姿を消してしまうのですが、すごく尻切れトンボなんですね。 こう、なんと言うか、言いたいことはヒシヒシ伝わるんだけど、映画にしてみるとすンゲー分かりにくいんですな。くしゃみが途中で止まったような感じに近いものがあって、テーマに映画が追い付かなかったというところでしょうか(偉そうな感想ですが)、作り手の熱意が感じられるぶん「惜しいなあ」という思いが観終ってしばらく残ってしまいました。 (2000年02月25日) 【追記】 |
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※本文中敬称略 |
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file updated : 2003-05-16