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按摩と女


■公開:1938年
■制作:松竹
■監督:清水宏
■助監:
■脚本:清水宏
■撮影:斎藤正夫
■音楽:
■美術:
■主演:徳大寺伸
■寸評:


 「ありがたうさん」とこの「按摩と女」が同じ監督の作品だと知ったとき、清水宏のにわかファンになった筆者(単純馬鹿)である。

 田舎道を二人の按摩、徳大寺伸日守新一が杖をつきながらやって来る。彼等は温泉場を渡り歩いているのだ。徳大寺は目開きを歩いて追い抜かすことを楽しみにしているが、たまたま学生たちに抜かされたまま目的の温泉宿へ着いてしまったのをとても残念がる。

 途中、二人を追い越して行った馬車に東京から来た女・高峰三枝子が乗っているのを鋭い感覚で見つけた徳大寺は、彼女に呼ばれ按摩をしているうちに、何かの事情で彼女が逃げまわっているのだと知る。謎めいた高峰に、徳大寺は恋をしてしまう。

 同じ宿に泊まっていた東京から来た男・佐分利信は小さな男の子を連れていた。高峰はこの男の子と知り合い、まだ独身だと分かった佐分利といい線まで行くが、彼は東京へ帰ってしまう。

 恋のライヴァルである佐分利はいなくなったが、温泉場で客の持ちものが次々に盗まれる事件が起こり、徳大寺は高峰が犯人だと思って気が気ではなくなる。警察の捜査が本格的になったある夜、徳大寺は高峰を逃がそうと奔走する。徳大寺の勘違いに気がついた高峰は、自分は東京で妾暮らしに嫌気がさして逃げてきたのだと告白した。

 翌日、高峰は馬車で去って行った。後を追おうとした徳大寺の心の目には、走り去る馬車の姿がはっきりと「見え」ていた。

 物語はこれだけ、しごくシンプルだが、徳大寺伸と日守新一の按摩演技があまりにも素晴しいので、おもわず引き込まれてしまう。

 按摩に追いかけられて気味が悪かったと言った学生に、強烈な按摩をかけて翌日、まともに歩けなくしてしまったり、盲かどうか確かめようとした男の子が差し出した藁を虫と思って追い払うユーモラスな演技は芸術的。

 高峰三枝子をスクリーンの角に小さく置いて、川や滝の情景を全面に配したシーンの清冽さ。温泉に漬かった佐分利信の顔が逆光でほとんど見えないのに、充満した湯気が漂わせる心地よさ。物語の重要な役どころである温泉場という舞台のしつらえが、一つ一つの画面から見るほうにしみじみと伝わってくる。

 按摩が主役と言えば「座頭市」だが、あれは剣豪がたまたま按摩を生業としていただけで、本格的な主役というのは本作品くらいなのでは?

 高峰三枝子は本当に奇麗で、その奇麗な顔をハナにかけずに、もちろんコンプレックスであろうはずがなく、かといって卑下するわけでもなく、ごくごく自然体の美人。なんてったって東洋英和の出身だもん、これ、別に学歴的に凄いってんじゃなくて、東洋英和は知る人ぞ知る「お嬢」学校ゆえ。本物、なわけよ。

 そんな高峰は徳大寺に惚れられるのだが、堂々とした態度が決して驕慢に見えない。こういうのを品格と言うんでしょうね、昔の映画は勉強になりますわ。

 見送る徳大寺の見えない目が追う、馬車の後ろ姿は日本映画のベストシーンの一つに入れたいな。

1999年11月02日

【追記】

※本文中敬称略


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■日のあたらない邦画劇場■

file updated : 2003-05-27