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血と砂


■公開:1965年
■制作:東宝、三船プロダクション
■監督:岡本喜八
■助監:
■脚本:岡本喜八
■原作:
■撮影:
■音楽:
■美術:
■特撮:
■主演:三船敏郎
■寸評:


 果たせなかった夢を若者に託す老人の言葉は甘く、過ちを繰り返させまいとする言葉は苦い。昔は良かった&辛かったというのは世代が違えば共感を得にくいものだが、ようは見るほうにどれだけ歩み寄れるか?という加減による。この作品は正直、ほとんど歩み寄っては無い。

 太平洋戦争の末期、八路軍にヤキバ砦を奪われた隊長・仲代達矢の命令により、砦で全滅した部隊の見習い士官・満田新二が銃殺される。罪状は敵前逃亡。そこへ音大出身の兵士ばかりで組織された慰問部隊の音楽隊が到着。戦闘訓練をしたことがない十代の彼等を指揮していたのは曲がったことが嫌いで軍の上層部から目を付けられている曹長・三船敏郎

 三船は同期で出世コースを走っていた曹長・名古屋章から、見習い士官が敵前逃亡をして本隊へ戻ったのが、全滅の前であると判断されたので銃殺されたと聞かされる。ヤキバ砦の奪還を命令された三船は、元板前の古参兵・佐藤允、葬儀屋の二等兵・伊藤雄之助、戦争に疑問を感じてサボタージュしていた通信兵・天本英世、そしてあの音楽隊の少年たちを引き連れてヤキバ砦へ向かった。

 三船とコンダクター・大沢健三郎との決死の活躍でヤキバ砦を取り戻すことが出来たが、コンダクターは八路軍兵士に殺されてしまう。

 お春・団令子という従軍慰安婦がやってくる。彼女は三船に惚れて後を追ってきたのだ。三船はまだ童貞の少年たちをお春に頼み、「一人前」にさせてやる。

 翌日から、少年たちは激しい戦闘の中で一人、また一人と死んでいく。爆撃の恐怖に最初はおびえていた彼等だったが、三船と佐藤に導かれて徐々にたくましくなっていく姿が痛々しい。

 捕虜にした中国人の少年ゲリラ・木浪茂が寂しそうなのを見かねたフルート・西川明が牢屋のそばでフルートを吹いてやる。翌日、フルートは死んだ。見習い士官が指揮していた部隊で戦死した兵士はすべて八路軍が葬ってくれていた。しかし、墓標の数は戦死報告の半分しかなかった。

 伊藤雄之助がお礼のために八路軍兵士の死体を運んでいた途中、八路軍の一斉攻撃が始まる。三船は伊藤をかばって瀕死の重傷を負うが、少年たちを動揺させまいと黙って本部へ連絡を取ろうとして絶命してしまう。お春の口から、銃殺された見習い士官が三船の弟だと知らされた佐藤は、三船から託された少年たちを一人でも生きて帰らせようと敵の本陣へ突入する。

 そこにはヤキバ砦が全滅する前に八路軍に投降して寝返った日本兵たちがいた。見習い士官は、部下の敵前逃亡を報告せずに責任を一人でかぶって銃殺されたのだった。孤軍奮闘した佐藤は戦死する。銃弾を使い果たし、激しい爆撃にさらされた少年たちは、三船と仲間を弔うために必死に「聖者の行進」の演奏を続けるがついに全滅。

 一斉攻撃の直前に、伊藤雄之助が逃がしてやった少年ゲリラが何かを叫びながらヤキバ砦に戻ってきた。それを見た伊藤は彼を射殺してしまう。その伊藤も殺され、砦にはたったひとりお春だけが生き残った。記念にもらった遺品のフルートを腰に差し、倒れた少年ゲリラが手にしていたビラには「終戦」の文字があった。

 岡本監督は戦争映画において常に「戦争で死んだ若者たちを忘れないで欲しい」ということを訴え続けたのだが、私が観た作品のなかでは、この事が最もストレートに訴求されていると思った。

 「職業軍人にしてはデキが悪い」「戦争と言うのは汚いものだ」という三船敏郎の台詞にもよく現われているが、その「メッセージ」があまりにもあからさますぎて、ちょっと引いちゃう感じ。結局のところ、少年(ゲリラの少年も含む)を殺してしまったのは誰なのか、そこんところがハッキリしていない。

 三船がまるっきり正しい(かつカッコイイ)かと言うと、そうでもないんじゃないか?と思えるし、砦の少年たちを見殺しにして撤退する本隊から離れて全滅した砦にやって来る仲代達矢も、イマヒトツ意味不明だ。

 死んだ人は全く気の毒というただ一点で、戦争映画を観た戦後の日本人は多いに共感する。

 音楽隊の少年たちが、あれが自分や、自分の身内や、あるいは自分が愛する人でなくて、ああ良かった、と安心する。それでいいんじゃないのかな。戦争であんなふうに死ぬのはイヤだ、あんなふうに死なせるのもイヤだ、それでいいんだよね、きっと。

 作り手と完全に共感するのなんか絶対に無理だもん、戦後生まれにとっては。作り手と観るほうの時代のズレでそうなるわけだが、古い映画というのは大概、そんなものなのさ。

 団令子の従軍慰安婦は、昨今「謝罪」を求めている人達と同じなんだが、まあ、ああいう人だって一人もいなかったわけじゃないだろうし、だけど、くれぐれも「望んで娼婦になった女」なんてのは、この世には絶対にいないんだって事、それだけは絶対の真実ですがね。

 「血と砂」は全滅する少年たちが猛爆撃の中で砂まみれ、血まみれになって死ぬところから。

1999年08月17日

【追記】

※本文中敬称略


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■日のあたらない邦画劇場■

file updated : 2003-05-16