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鯨神


■公開:1962年
■制作:大映
■監督:田中徳三
■助監:
■脚本:新藤兼人
■原作:
■撮影:
■音楽:
■美術:
■特撮:的場徹
■主演:本郷功次郎
■寸評:


 捕鯨によって生計をたてている漁村。時折姿を現わす巨大なセミクジラは鯨神と呼ばれて畏れられていた。鯨神に立ち向かった男たちは、尾っぽによって船を叩き壊され海に投げ出されたところをその巨体が巻き起こす渦巻きに巻き込まれてことごとく死んでしまう。

 村長・志村喬は生き残った若者たちに「鯨神を倒した者には村長の権力と財産、それに娘・江波杏子をやる」と宣言。しかし志村喬は計算していた。「鯨神に挑んで命が助かった者はおらん」だから娘を嫁にやることもなければ財産を失う事もない、さらに「村長としての意気込みをアピールしとかないと威厳が保てない」という実にあざとい目論見なのだ。そんな人だったのね、志村喬。さて、この村に父と兄を鯨神に殺された若者、シャキ・本郷功次郎が歳老いた母親と二人で住んでいた。彼には許婚のエイ・藤村志保がいた。シャキは屈強で心のやさしい男であり村長の信任も厚かった。

 村に紀州・勝新太郎という漁師がやってくる。彼は腕っぷしは強かったが粗暴な性格で村の中では孤立していた。紀州はエイを襲って妊娠させてしまう。臨月のエイを訪ねたシャキは生まれてきた子供を自分の実子として家に引き取りエイの面倒をみる。

 村長はシャキが打倒鯨神をあきらめたのではないかと心配するが、シャキは村長の娘が目当てで鯨神を狙っているのではないと言う。鯨獲りの漁師として正々堂々と鯨神と戦うと言うシャキを止めることができないエイは子供の親が誰であるかについて何も聞こうとしないシャキを心から愛する。

 とうとう鯨神が沖に姿を現わした。船団の先頭にはシャキ、紀州らが乗り込む。無数のモリが鯨神に浴びせられる。やっとこさ網をかけたが、その時、まだ十分に弱らせていない鯨神に紀州が単独で突進し、急所にモリを突き刺した。だが紀州は余力のある鯨神に海に潜られてしまい網にからまって溺死する。

 紀州の捨て身の攻撃でいよいよ動きが鈍くなってきた鯨神にシャキが飛び移り、紀州が刺した急所のあたりを刀でえぐり、大出血をさせる。鯨神は最後の力をふりしぼってシャキを払い除けようと大暴れ。振り落とされまいとがんばったシャキは腕と足を骨折したが、なんとか鯨神を仕留めることに成功した。

 救助されたシャキは苦しい息の下から、すでに解体され頭部だけが浜に晒者になっている鯨神の側で死にたいと村長に懇願する。浜に打ち上げられた紀州の死体。エイは子供の親が紀州であることを告白する。シャキは、責任を感じた紀州が自分の命を危険にさらさないために無茶な突進をしたのだとエイに告げた。

 鯨神との死闘を経験したシャキは、親の仇として狙っていた鯨神と同化する事を望みながら静かに息を引き取るのであった。

 鯨神の死体を静かに北の海へ流してやりたいという思いは、家族を殺された村人たちの怨念により八つ裂きにされてしまう。シャキは鯨神に深く同情しているのだ。大いなるものに触れた人間だけが開いた悟りをシャキが得たと考えるべきなのだが、ここで最後まで人間として生臭く生き抜いた紀州との対比が出てくる。

 一人は情によって命を捨て、一人は信念によって死ぬ。どちらも犠牲的な精神なのだが、本能に忠実に死んだ紀州に対して、シャキは因習的な束縛により死ぬのである。鯨神への怨念によりヒステリックになった村人たちの期待を背負ってしまったシャキは、自分が神となることで自分の死を少しでも意味あるものにしようと考えたわけだ。

 「白鯨」のモビイディックとエイブラハム船長を連想させるだが、鯨と人間のライバル関係を描いている「白鯨」に対し、本作品は畏敬の念を描いているところがミソだ。鯨と日本人との関係を描いている映画はあまり無いと思うから捕鯨反対運動の人達に観て貰ってはどうか?

1999年07月05日

【追記】

※本文中敬称略


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■日のあたらない邦画劇場■

file updated : 2003-05-16