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ボクは五才


■公開:1970年
■制作:大映、ダイニチ
■監督:湯浅憲明
■助監:
■脚本:
■撮影:
■音楽:
■美術:
■主演:岡本健
■寸評:可愛げが無くとも子は育つ?


 高知の田舎に住んでいる太郎・岡本健は母を亡くして祖父母の家に引き取られている。父親・宇津井健は大阪に出稼ぎに行っていて最近は盆暮れ正月にも帰ってこない。ちょうど大阪万博の開催を目前にして、ニコヨンをしている父親は仕事が忙しく家に帰られなかったのだ。

 太郎は父親恋しさからしょっちゅう家出を試みるのだがいずれも半径500メートル以内で未遂に終っていた。祖父・左卜全や祖母・北林谷栄、叔父の家族は太郎の寂しさに同情してあまり叱ることができなかった。太郎は祖父に、父親に早く家に帰って貰えるように手紙を書いてくれと頼む。五才の太郎にはまだ手紙を書くことができなかったからだ。太郎は一日千秋の思いで返事を待ち続ける。

 やっと来た手紙を近所の学生に読んで貰った太郎は、祖父から送られたの手紙の内容が「太郎の事は心配しなくて良いから仕事に励め」という趣旨であったことを知る。大人は嘘つきであることを五才にして身に染みてしまった太郎は、ついに本格的な家出を試み、タバコ屋のおばちゃん・ミヤコ蝶々の監視もふりきって無事、高知駅にたどり着く。

 叔父の連絡ですでに高知駅には多数の警官、ではなく駅員が太郎を待ち構えていた。太郎は長距離トラックの荷台に隠れる。頼りにするのは以前、父親に連れて行ってもらった大阪までの道すがら目印になるものを片っ端から絵にしたためたスケッチブックだけ。

 電車のペイントや連絡船の旗など克明な描写を手がかりに、そして運賃無料のフリーパスというお子様的特権を駆使して交通機関を乗り継ぎ太郎は大阪を目指す。しかしやっとたどり着いた父親のアパートはすでにもぬけのからだった。アパートの大家・正司歌江は祖父からの電報を受け取っており、太郎を優しく迎える。

 一生懸命だっただけに太郎の落胆は尋常では済まなかった。かんしゃくを起こした太郎は父親がいた部屋に、自分が描いた絵を発見しついにブチキレ、室内にあった灰皿をブン投げて窓ガラス叩き割る。五才にして家庭内暴力に目覚めてしまった太郎。しかししょせんは子供、旅の疲れでついウトウトしてしまう。

 そこへ偶然、帰ってきた父と再会した太郎であったが、「僕のことよりも仕事のほうが大事なら、仕事へ帰れ!」と父親を罵倒する。父親は新しい現場へ移ったのだが、引っ越しのとき大切な「絵」を忘れてしまったのであわててパートに引き返して来たのだった。

 父親の愛を確かめた太郎は思いっきり甘える。そこへ太郎の後を追ってきた祖父母が、あの迷路のような大阪は梅田の地下街で迷子になったらしいと連絡が入る。太郎は父親と一緒に元気よく二人を迎えに行くのであった。

 さて、本作品の子役、岡本健。これがまた実にカワイクない。元気と言えば聞こえは良いが、実際のところは自分の要求が実現できないと、すぐへそを曲げるし悪態をつく、ヤなガキである。ところがしばらく観ていると、そのふてぶてしい面構えに愛着が湧いてきて、とっとと捕まれよ、などと思わなくなり、「ガンバレ小僧!」と応援してしまうのである。電車なんかに乗らないでガメラ呼べよ!大映なんだからさあ!等々トチ狂った声援も(ついでに)送っちゃったりなんかして。

 太郎が父親から来た手紙を読んだ直後に叫んだ一言「大人は嘘つきや!信用できん!」という台詞に共感しない人はまずいないのでは?。大人にならないと分からない、誰しも子供の頃に絶対に一度は経験するやりきれなさ。それが大人の「情」であると分かったときに感じるほろ苦さ。

 俺たちは天使じゃない!と叫びたい子供の心に大人の観客である私はぐっと共感してしまう。教育的な映画でありながらも白々しくならないのは、宇津井健の単純さに因るところが大。体育会系の鈍感男にありがちな強引すぎるスキンシップ、家出を責めずによくぞ大阪までたどり着いたと褒める明朗さ。宇津井が全然説教臭くないというのが良い。

 こういう昔の映画を観ていると、たとえば親がパチンコに夢中になっている間に車の中で赤ん坊が熱射病で亡くなるとか、子供を殺すまで体罰しちゃうとか、そういうものが本作品の制作当時はいかに想像を絶するものであったかが分かる。子供を地域ぐるみで育てるシステムはいつ崩壊したのだろう?いや、親が子育てをするという常識はどこでズッコケたんだろう?

 シンプルな映画ほど考えさせられる事が多いものだねえ。

1999年07月12日

【追記】

※本文中敬称略


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■日のあたらない邦画劇場■

file updated : 2003-05-16