「されど我らが日々」より 別れの詩 |
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■公開:1971年 |
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公務員の山口崇とタイピスト、小川知子は恋人同士。小川のタイピスト仲間、藤田みどりは、妻子のある男、北村和夫と不倫関係にあった。藤田と北村の仲が公然の事実なったため、北村は名古屋に飛ばされていたのだが、藤田は遠距離不倫を続けていた。 ある日、小川は学生時代の恋人、高橋長英が自殺したという新聞記事を偶然発見する。学生運動の闘士だった高橋はデモの最中、警官にパクられそうになり仲間を見捨てて行方をくらましていた。小川は高橋の実家まで出向き、隠れていた高橋を「卑怯者」とののしった事を気にかけていた。彼の自殺現場がかつて二人が結ばれた場所だったからである。 山口はアメリカ出張を目前に控え、友人の村井国夫から、藤田と近々見合いをすることになっているから彼女について小川からいろいろと聞いて欲しいと頼まれていた。処女でない女は結婚しても浮気するから嫌だ、と村井は言う。山口は藤田の不倫の事を知っていたが村井には告げなかった。 北村の妻、南風洋子の訪問を受けた藤田は話しあううちに結婚や夫婦というものに失望し、北村とも別れて一人、故郷へ帰ってしまう。藤田は北村の写真をすべて焼き払うことで、過去の痕跡を抹消するのだった。 小川は高橋の遺書を読み、自殺の原因を知ることができたが、死に場所の選択理由だけは分からなかった。彼女は「過去は捨て切れるものではない」のだと感じていた。山口と正式に婚約した小川は高橋との関係を告白した。それを聞いた山口は「過去は排泄物のようなもの」と断じたので、小川は将来に不安を感じてしまう。 山口の部屋から女性の写真を見つけた小川がその件を訊ねると、その女性、木内みどりは学生時代に山口の子供を妊娠した挙句に自殺したのだと聞かされる。それでも「過去は排泄物」と言い切る山口に絶望した小川は鉄道自殺を図るが奇蹟的に命はとりとめた。 片足が多少不自由になると医者から言われた小川に、山口は「かたわになっても君が必要だ」と言う。感激した小川は一人で必死にリハビリを続ける。入院中に読んだ小説「復活の日」で主人公が人類の復活を信じて15年間グレートジャーニーを続けた事に触発された小川は山口といったん分かれることによって、自分自身を「復活」させようと一人、東北へ旅立つのであった。 人生にリセットをかけるのは容易な事ではない。たとえフリーズしようとも、前に進むことしか人間っていうのはできないのである。時の流れには逆らえない、と山口が言う様にいちいち過去に囚われていては進歩も変化もない、っつうわけだ。女をはらませて自殺させたんだから、忘れたい、っていう度合が高いのもむべなるかな、なんだけどね。 原作がある映画ってのは「文字」や「台詞」の構成要素が大きくなるもの。遺書や新聞記事や手紙によって重要なポイントが語られる、という事は本作品でも共通している。 成瀬巳喜男監督と森谷監督の芸風は似ている。師弟関係だったと書籍にあるから当然なのかもしれないけれど、弟子のほうがかなりナイーヴ度がアップしているような気がする。師匠のほうは金に細かいという生活密着型なんだが、弟子の手になる本作品からはそういう所帯臭さはあまり感じられない。 年代の相違っちゅうもんかな、やっぱり。師匠の時代って日本と日本人はまだまだ貧乏だったからねえ(実体験じゃないけどさ)。 苛烈な思いを胸に秘め本能に忠実に生きることを選択するヒロイン。この役どころに小川知子を得たのはまさに天の配剤かも。その後の人生を目のあたりにした現代の観客としては「やっぱ芝居には人間性が出るもんだねえ」と納得することしきり(?)。 同じ様に風俗を描きながら成瀬巳喜男監督に比べて森谷監督の評価がイマイチという理由があるとすればそれは、時代が若いから、であると思う。もちろん時代を共有している年代層には「胸がキュン!」なのだが、ちょいとでもズレるとアウト。「ちょっと古い」が「一番古い」のひそみに習えば、あと10年くらいすると森谷司郎の青春映画への評価はぐぐっとアップするのではないか?なんだか骨董品みたいな感じだが、時間が映画を浄化して生臭さを消してしまうと言うのは事実。今からチェックしておいたほうがイイかもよ。 (1999年06月25日) 【追記】 |
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※本文中敬称略 |
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file updated : 2003-05-16