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花嫁吸血魔


■公開:1960年
■制作:新東宝
■監督:並木鏡太郎
■助監:
■脚本:長崎一平
■原作:
■撮影:
■音楽:
■美術:
■主演:池内淳子
■寸評:池内淳子が怪人に変身する。


 明日のスターを夢見てバレエ学校に通っていた藤子・池内淳子は、仲良しの3人娘・瀬戸麗子矢代京子らとレッスンに励んでいた。三人娘の一人が付き合っていた長身で甘いマスクの新聞記者・高宮敬二は見かけ通りの女ったらしで、スターにあこがれる少女たちに、記事を書いてやると言って接近し、モノにするとすぐ捨てるという実にウラヤマシイ、じゃなかった非道な奴だった。

 三人娘はそれぞれ映画会社との契約を破棄されたり、恋人にフラれたり、ロクな目にあっていなかった。そこへ池内だけが映画に出演が決まったり、フッた男がいずれも池内とラブラブになったりしたために、よく考えると特になにも悪いことをしていない池内に対して三人娘は八つあたり的逆恨みをし始める。

 女というのはこのように、結束するとメキメキとそのパワーを増幅するのであるが、彼女たちはこともあろうに、池内をピクニックに行った城ヶ島の断崖からつき落とすという強行手段に出るのであった。

 ちょうどその頃、池内の実家は借金で火の車。病弱な母親を一人残しておくわけにはいかないと、顔の半分がふた目と見られないくらいに潰れるほどの重傷を負った池内が、嵐の中、病院を抜け出して家に帰って見ると、すでに母親は西洋剃刀で自殺していた。

 母の遺書には「お琴さま」という親戚を頼るように記されていた。池内は顔面包帯のまま母の骨壷を手に持ち、お琴さまの所在を地元民に訊ねるのだが、彼等はみな一様にけげんな顔をするのであった。そりゃそうだろう、だって池内淳子の風体はどう考えても怪しいもの。

 しかし地元民が恐れたのは池内のヘンな顔ではなく、人里離れた山奥で、せむしの下男とともに怪しい祈祷し、おまけに顔面がただれたような奇怪な面相のお琴さま・五月藤江なのだった。

 五月の妖術によって、あの事故は仲良し三人娘につき落とされたのが原因だと知った池内は大ショック。五月は池内こそが一族(って何の一族なんだか、、、)でただ一人の血縁者であったため、その気の毒な身の上に同情し、復讐を促すために秘術をもって怪我の治療を約束するが、コウモリの湿布なんて全然効き目がなかったので傷はますます悪化。

 友達には裏切られるわ、顔はとりかえしがつかなくなるわで、踏んだりけったりの池内も自殺。責任を感じた五月藤江は自分の生き血を池内に与えて(まずそう!)蘇生を試みる。傷も消えて生き返ったまでは良かったが、池内の体に入ったコウモリのパワーと五月藤江の怨念のおかげで、彼女はみるみるうちに全身毛だらけで、鋭い牙を持った化け物に変身してしまうのだった。

 婆ア、余計な事しやがって!と思う間もなく、五月の意思に操られるように池内は身分を隠して里に下り、太平洋美人コンテストに出場し見事に優勝する。審査員は、池内亡き後、それぞれ芸能界にデビューしたあの三人組であった。殺したはずのかつてのライバルに瓜二つの女におびえる三人。そして復讐は開始されたのだった。

 復讐のチャンスが来ると池内本人の意思もさることながら一族の復興を願う五月藤江の血の力により、見るも大笑いの、じゃなかった、不気味な直立コウモリ怪獣に変身。まずはスケコマシの高宮敬二、次にその恋人だった二人の女を連続して殺した池内は、かつて自分を本当に好きになってくれた友達の兄・寺島達夫と、池内の代わりに結婚することになっている三人組の最後の一人の元へ向かう。

 寺島達夫を悲しませたくない池内の心とは反対に彼女の体は再びコウモリ怪獣になってしまい、とうとう最後の一人を殺害するが、逃げる途中で銃撃されてしまう。池内は最後の力をふりしぼって山へ逃げたが池のほとりで力尽きる。後を追ってきた松島に発見された時には元どおり美しい姿に戻っていたのがせめてもの救い。池内淳子の亡がらを抱いた寺島達夫は彼女の数奇な運命に深く同情するのであった。

 この映画、池内淳子と大蔵貢との確執の産物であることが定説となっているのだが、そういう大人のドロドロはさておき、特撮シーンの上手さをぜひ紹介したい。モンスターの造形には時代を感じてしまうが、変身シーンにおけるオプチカル合成のスムーズさはオオッと唸る。本当にワンカットで色白美人の池内淳子が、土人の娘のようにガングロ(顔黒:過剰な日焼けの意)になり、さらに絶妙のカット割で毛むくじゃらの怪物へ変身していくのだ。

 「狼男アメリカン」も腰抜かすくらい「ぼうぼう」になる池内の腕の毛は、女性にとってはイヤーンなことこの上ないし、さらにあの出っ歯と変身途中の感電ヘアは爆笑必至と思われるので、確かに大蔵先生の陰湿な、しかしあからさまな「イジメ」の要素は感じるのだが、演じるほうが必死であることは確かなようだ。

 いずれにせよ、様々な伝説に包まれた幻の作品であることは、内容を見ても大納得であると同時に、幻にしておくには惜しい出来映えであることも確か。しかし怪物を演じたのが池内淳子本人であるという「噂の真相」はかなり本当っぽい。目の表情が池内淳子によく似ているし、小柄だし、アクションシーンが多少つまんであることから察するに、中味は女性というのは間違い無いのではないか。

 技術的には素晴しくても不誠実な映画と言うのはたくさんある。しかし本作品は技術的にも優れているし(デザインセンスが悪いのは時代のなせるわざなので目をつぶる)、なにより作り手の真面目さや必死さに好感が持てる。何事も一生懸命ってのは人を感動させるわけだね、たとえヤケッパチだったとしても、さ。

 新東宝の撮影所が出てくるのも、今となっては貴重な映像と言えるかも。

1999年06月01日

【追記】

※本文中敬称略


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■日のあたらない邦画劇場■

file updated : 2003-05-16