「日本映画の感想文」のトップページへ

「サイトマップ」へ


藤十郎の恋


■公開:1955年

■制作:大映

■企画:

■監督:森一生

■脚本:

■撮影:

■音楽:

■美術:

■特撮:

■主演:長谷川一夫

■寸評:悪役の長谷川一夫


 上方歌舞伎の花形役者、藤十郎・長谷川一夫は濡事では当代随一と噂されていた。実事で有名な江戸歌舞伎のライバルが京都で公演をすることになったが、演目は藤十郎と同じ濡事だという。劇場主・進藤英太郎たちは大したことないだろうとタカをくくっていたが、いざ幕が開いてみると相手方の良い所ばかりが目につき、藤十郎についていた客も徐々に相手方に喰われ始める。

 京都の旦那衆も続々とスポンサーをやめると言いだし、上演に必要な資金も集まりにくくなった。困った藤十郎は大阪から劇作家の近松・小沢栄太郎を呼び、斬新な男女の恋愛を描いた作品を依頼する。ちょうどそのころ大阪では大店の内義と使用人が不義の末に駆け落ちして処刑された事件がセンセーショナルに報道されていた。近松はこの「おさんと茂平」を題材に「大経師昔暦」を書き上げる。

 従来に無いような男女の苛烈な恋の演技に悩んだ藤十郎は、茶屋の女将・京マチ子を芝居の台詞で実際に口説いて、女将があまりにも感激する姿に演技のヒントをつかむ。芝居の幕が上がると、女将は藤十郎が偽の恋の告白をしたことに気がつき、奈落で自害してしまうのだった。

 この題材は長谷川一夫で過去に一度映画化されているが、そちらを観ていないので本作品に限って感想を述べる。おまけに私は長谷川一夫ビギナーなので、ソノ筋の猛者の方々には笑われるかもしれないが、そこんところはご勘弁を。

 この作品を観たほとんどの観客が主演の長谷川一夫と藤十郎をダブらせてしまうと思う。そしてどうしても思い出さずにはおれないのが本作品の前年に制作された「近松物語」である。「近松〜」でフィクションとリアリズムの葛藤を経た後の本作品で藤十郎が女将に仕掛けた偽の恋はまさにリアリズムの追及に他ならない。女将の女心を巧みにゆさぶって、かなわぬ期待を相手に抱かせるのである。全く不実な役どころである。長谷川一夫じゃなかったらブン殴ってやりたいくらい、である。

 挙句に女将の自害に困惑する周囲に向かって藤十郎は自らの芸を「女一人の命に替えられるか」と言いはなって舞台に出る。芸道の厳しさ云々よりもこれでは長谷川一夫は完全に悪役ではないか?ひいきの女どもには目もくれず、冷たく突き放すことはあっても芸道を優先し、人一人の命をなんとも思わないのである。

 京マチ子に言い寄りながら、相手の反応をつぶさに観察するシーン。甘い視線が一瞬のうちに鋭い視線に変化する怖さ、不気味さ。

 濡事の大スターである長谷川一夫にとってこういうリアルな悪玉っぽい役どころは私にはとても意外だった。色男、スーパースタア、それが長谷川一夫のすべてだと思っていた。「近松物語」はあくまでもエピソードに過ぎないと思っていたのに。すでに押し出しも立派な分別盛りの大人の男になっている本作品の長谷川一夫は相変わらず途方もなく美しいのであるが、同時に確信犯的リアルさを持ったものすごい「いやらしさ」がある。美しい顔立ちに潜む毒気の魅力と迫力。

 長谷川一夫は自分をいかに美しく、大きく見せるかについてとことん努力をした人である。映画俳優として「芸道」を極めようとしたのは長谷川一夫くらいなものなのでは?本作品の藤十郎に自分の気構えをそっくり乗り移らせたと言ったら言いすぎだろうか。

1998年07月19日

【追記】

※本文中敬称略


このページのてっぺんへ

■日のあたらない邦画劇場■

file updated : 2003-05-16