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聖母観音大菩薩


■公開:1977年

■制作:若松プロダクション

■監督:若松孝二

■助監:

■脚本:

■原作:

■撮影:

■音楽:

■美術:

■主演:松田英子

■寸評:主演は「愛のコリーダ」の松田英子


 たまたま話題になった映画に主演してしまったせいで一生「××の〜さん」と言われてしまうのは、当人にとっては複雑なものがあるらしい。「スタートレック」のレナード・ニモイ然り、「スカイライダー」の村上弘明然り、である(関係ないけど)。本作品の松田英子(暎子)もその一人。本番女優という称号を与えられた「愛のコリーダ」の一発屋みたいに言われてるが、そんなこたあないという証拠が本作品。

 伝説の八百比丘尼(はっぴゃくびくに)は人魚の肉を食べてしまったので死ねない体になった。その八百比丘尼の化身を自称する女・松田英子が物語の主人公。彼女は体が腐る病気に冒された老人・殿山泰司の世話をしながら浜の小屋で暮らしている。八百比丘尼は近くの神社で奉仕活動をして生活の糧を得ている。そこのアルバイト巫女・浅野温子は恋人がいるのだが、どうも体を許すまでの決心がつかない。

 情事の最中に満足して死んだ老人の葬儀を済ませた八百比丘尼のところへ、男・蟹江敬三が転がり込む。彼は事件を起こして逃亡中だった。蟹江の荒んだ心は比丘尼の体を抱くことで少しづつ浄化され、親類の説得に素直に応じて逮捕されていった。

 神社で若い娘の瞽女・鹿沼えりが地元の有力者・北上弥太郎に犯されそうになる。北上はインポテンツにかかってしまいセックスができないので、病気や片輪の女を金で買っていた。比丘尼はショックで不安定になった瞽女を引き取って抱いてやる。

 北上は比丘尼を強姦する。その最中、「男」を回復した彼は「私に必要だったのは異常な女との正常なセックスではなく、正常な女との異常なセックスだったのだ!」などとわけのわからない発見をして金を渡して去る。あらゆる男を受け入れ救ってきた比丘尼だったがこの時ばかりはさすがに怒ったのであった。

 家族に見捨てられた男・石橋蓮司は比丘尼に慰められたが銃で自殺してしまう。北上は性懲りもなく今度は浅野温子に痴漢をする。浅野は汚された自分を殺して欲しいと恋人に懇願する。死にたいと思い続けていた比丘尼が初めて「生きていたい」と思った矢先、痴漢を目撃された北上は証拠隠滅のために彼女の頭をカチ割って、海に叩き込む。死んだ浅野の死体を海に流した少年の目の前に比丘尼は再び姿を現わした。

 恋人とのセックスシーンでオールヌードになる浅野温子は当時16歳、いいのか?成人映画に出ても。観るのはいけないが、出るのはいいのか? そういえば池怜子がデビューした時とおない歳だな、女16歳は危険な年齢なのねえ。

 まことに妖精のような(容姿ではなく)不死の女と、現実を生きているリリカルな女子中学生の対比。個性的な二人の女の存在感がこの映画から生臭さを打ち消して、とびきりファンタジックなものに昇華させてしまったようだ。二人の女性に比べて男どもはなんとたよりなく、希薄であろうか。

 小汚い(失礼)男性陣のなかでは北上弥太郎(現・嵐吉三郎)というのは懐かしい顔だ。この人が最後なんじゃないかな、歌舞伎からスピンアウトした時代劇映画俳優というのは。それが同情の余地のない変態役である。端正なマスクの変態っつうのはアタック力が強すぎて、ちょっと気の毒だったなあ。ま、無事に梨園に復帰できたんだから、ヨシとするか。

1998年05月12日

【追記】

2003年02月11日:訂正追記。

※本文中敬称略


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■日のあたらない邦画劇場■

file updated : 2003-05-16