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トマトケチャップ皇帝


■公開:1970年

■制作:天井桟敷

■監督:寺山修司

■助監:川喜多清正

■脚本:

■原作:

■撮影:沢渡朔

■音楽:

■美術:

■主演:新高恵子

■寸評:


 幼児性を残した大人というのは限りなくメイワクな事が多いものだが、正真証明の子供が大人を支配したらどうなるか?

 子供を虐待した大人は市中を引き回され、死刑。生徒に勉強を強要した教師はすっ裸でさらし者に。朕は国家なり、朕は子供なり、というわけで子供が少年になったら退位するという天皇制度。すべてが馬鹿馬鹿しい空想の産物だ。子供にとっては夢なのか?どうだろうか。

 前衛映画というのが「わけわからん」というのはよく承知していたが、今まで観たことがあるそれらの中ではかなり素直なんじゃなかろうか。子供のレボリューションをエロティックとサイケ(セピア単色フィルムだけど)に、グロテスクに見せる。

 ドラッグクィーンに裸に剥かれて性器をオモチャにされ、大笑いする少年。子供にまじって登場するリリパットたちは唐突に鶏の首を叩き折り、画面には哀れな断末魔の姿が映し出される。ストーリーはあってないような物だが、一人の子供が母にあてた手紙が唯一、時間の経過を意識させてくれる要素になっている。

 皇帝の近衛兵になった子供は最後に保身のために自分の母親を密告する。「死刑にならずに、気違い病院に入れると良いと願っています」と、手紙は結ぶ。

 ゲテな化粧で登場する天井桟敷の面々は、子どもたちの前ではまったく無力で輝きがない。このことから、前衛という「理屈に根差した反抗」は大人に対してのみ有効な手段だったのだと気付く。一歩間違うと「少年趣味の変態映画」と紙一重なのかもしれないが、それにしたって画面の中の子どもたちは実に魅力的だ。カメラに対して構えず、媚びずで、アナーキーであることが天然なのだ。制作者がその魅力に取りつかれた気持ちはよく理解できる。

 私はこの映画に登場する「子供」が圧倒的に男の子であることに注目する。女の子というのは一足早く大人になってしまうものだから、男の子のように純粋な子供らしい期間が長くないのである。男の子供のアナーキーさというのは団体の中で早々に派閥形成を営む女の子とはまるで違うからだ。

 最近は男の子供も仲間外れやらなんやらするのが好きらしい。そのくせ大人になってからアナーキーになっちゃったりするので、さらに困るわけである。人に対しても、カメラに対しても適当に大人で、そのくせ子供であることをちゃっかり利用してしまうような今どきの「子供」は、寺山修司の目にはどのように映るのだろう。

1998年05月10日

【追記】

※本文中敬称略


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■日のあたらない邦画劇場■

file updated : 2003-05-16