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鴛鴦歌合戦


■公開:1939年
■制作:日活
■監督:マキノ正博
■助監:
■脚本:
■撮影:
■音楽:
■美術:
■主演:片岡千恵蔵
■寸評:オペレッタというのは通俗的な喜劇風の歌劇で、グランドオペラ(オペラ)は大がかりな歌劇のこと


 最近、妙にカルトな人気を得ている和製オペレッタ映画。

 長屋の貧乏浪人・片岡千恵蔵は、隣の傘貼り浪人・志村喬の娘・市川春代に惚れられている。千恵蔵には武士だったころ、親が勝手に決めた許婚・深水藤子がいて、さらに、商家の跡取り娘・服部富子にまでモーションをかけられているという、羨ましい状態。三人娘の猛烈なアタックも柳に風と受け流しながら、決していいかげんでも冷酷でもない千恵蔵なのであった。

 ある日、骨董好きの能天気な殿様・ディックミネが市川春代を見初める。ミネの藩の家老が深水の父親であったため、事態はさらに混迷の度を増す。娘かわいさのあまりこの家老は市川と千恵蔵の仲を裂こうと画策するのであった。家老は志村に借金のカタに娘を差し出せと迫るが、深水は父の愛に感謝しつつもその暴走に怒り、力づくで市川強奪を目論むミネの家来が千恵蔵と乱闘している現場に駆けつけた。

 志村が持っていたボロッちい壷が実はすごい値うちがあると言う。これで大金持ちになれる、商家の娘を見返して豪勢な暮らしができると喜んだ市川に、千恵蔵は突然、別れを告げる。大金や立派な別荘など必要ない、人の心が美しくなければ幸せにはなれないと悟った市川が壷を叩きこわし、それを見た千恵蔵は改めて彼女のプロポーズを受け入れた。

 イキナリ歌い出す登場人物、ほぼ全員が歌う。片岡千恵蔵だけは吹き替えクサイがそんなことはどうでもイイ。楽しいとき、切ないとき、人々の口から歌が自然とこぼれ出し、踊出すノリの良さ!骨董自慢の殿様、骨董屋の親父、殿様同様ニセモノをつかまされた志村喬が「これはそもそも古の〜」と他人から聞いたフレコミを鵜呑みにして歌う姿が皮肉っぽくてオマヌケで楽しい。

 抜けるような青空が似合いまくる片岡千恵蔵の大人の風格が心地よい。三人娘も各々に純だし、素直だし、カワイクてたまらなくて抱きしめたくなっちゃうぞ。服部富子の店の丁稚や、富子のファンクラブのマヌケ面さらした町の若い衆、それにミネの歌にあわせてコーラスしたり、踊ったり、はてはオーケストラ演奏までやっちゃう家来たちも凄くイイ雰囲気だ。

 女の子の純情につきあってやる男たちは、普段はみな一様にバカっぽいのだが、イザという時にはすごーく頼りになる。しようがないなあと思いながらもおバカな主君につきあう家来も、人を馬鹿にしたりしない思いやりのある、一人残らずイイ人ばかりではないか。ミネの殿様だってそうだ。権力で市川春代を強奪しようと思えばできたであろう。だが千恵蔵のようなイカス男には到底勝ち目なしと、とっとと引き上げるところが潔い。権力や金で心は奪えぬとちゃんと分かっているのだ。

 「俺は金持ちが嫌いだ、成り上がりの金持ちは大嫌いだ」と千恵蔵が市川春代に言い放つこのシーンだけは、ひたすら明るいこのミュージカル映画のなかで奇妙なコントラストを醸し出す。豊かな生活を目指して努力するのは美しいが、身分相応を見い出せない姿はあさましい。「身の程知らずの金持ちのやること」の究極が戦争なんだと言いたかったのかも。心の真珠を掘り出してこそ、人間の真の幸福は達成されると映画は強調する。

 すべてが丸く収まって、人の心に春が来る。大団円のハッピーさに心が解放されて思わず涙腺が緩んでしまいそう。映画が大衆娯楽であること、それを体得して以て任じた監督の芸。書籍などでは知ることができない戦前の心が豊かな日本の大衆像を知る縁として格好の作品かもしれない。

 これがカルトな人気を得るなんて、ちょっと納得しつつも、そういう現代の風潮のほうが面白かったりする。

1998年03月31日

【追記】

※本文中敬称略


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■日のあたらない邦画劇場■

file updated : 2003-05-16