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ウォータームーン


■公開:1989年
■制作:東映
■監督:工藤栄一(途中降板)、長渕剛
■助監:
■脚本:
■撮影:
■音楽:
■美術:
■主演:長渕剛
■寸評:長渕剛は宇宙人。


 地球外から飛来した謎の飛行物体。そこから生まれたのは桃太郎ならぬ、長渕剛であったとさ、ハイ、おしまい、、ってここで止めてもいいかしら?ツッコミどころの多い脇の甘い作品は、それなりに楽しい。ただし、その「甘さ」が観客のための努力の結果である場合に限る。

 禅寺の不良雲水・長渕剛は捨て子だったという。彼は住職・垂水吾郎に拾われて、他の雲水とともに修行していたのだが、ある日、若い雲水・萩原聖人が先輩達に苛められているのを見かねて、助けようとするが、先輩達が刃向かってきたので思わず手を出してしまう。住職は「怒りの感情を持ってはいけない」と諭すが、長渕は「人間界を見てみたい」と答えるのだった。

 長渕は正体不明の飛行物体から「生まれた」エイリアンであった。国家の監視の目をかいくぐり、長渕はついに寺を脱走する。そして東京へ向かった。

 昼日中、小汚い袈裟を着た無精髭の得体のしれない男に子供を抱き上げて貰いたい親なんぞいるわけがないのだが、彼の腕からわが子をもぎ取った母親はまるっきり悪役扱いである。道端に座り込む長渕にビールをぶっかけたサラリーマン・大林文史は叫ぶ「オマエらみたいな(税金を収めないような)奴らを見ていると腹が立つ!」と。実に共感できる罵声であるが、これまた「イヤ奴」として処理される。

 都会でも長渕は所詮、エイリアンであった。アーミーごっこをしていた若い男・今井雅之とトラブルを起こし、長渕は腹を刺されてしまう。彼を介抱したのは盲目の女・松坂慶子であった。

 松坂は交通事故を起こして目が見えなくなった。「リラ色」のコスモス畑を見たい、という彼女の願を叶えようと、時々襲ってくる発作と戦いながら長渕は彼女と逃避行を続ける。長渕は自分がエリアンであることを忘れようとしていたが、彼の体は地球人として同化しきれず、気を失った隙に国家公安委員会のチーフ・小林稔侍らに拘束されてしまう。

 標本としてイキの良いうちに解剖しようとする医者・成田三樹夫や稔侍の部下・誠直也らをたたきのめして長渕は逃げ出す。逃亡途中で育ての親である住職に「俺は生きたい」と泣きわめく長渕。「一殺他生」を説かれた長渕は、幻想とも現実ともつかない湖のほとりで松坂と再会し、彼女の目を治しそのまま息を引き取った。

 、、、か、に見えたが、イキナリ、まだ明けやらぬ東京のビルの狭間を走り抜ける長渕。行く手を阻んだ稔侍は彼に銃口を向けるが、突然、口笛を吹き出す長渕に気圧されたように、自分のこめかみに銃を向ける。長渕、その手をそっと握り締め、目を見つめ合い、稔侍は少し微笑んで、長渕は再び走り出す。「生きて、生きて、生きまくれ!」というテロップが画面に躍り出て、映画は終った。

 「論文の書き方」というのを読んだことがあるか?まず大切なポイントは「論旨が首尾一貫していること」であると大抵、書いてあるはずだ。顧みて、本作品はあまりにも不可解な点が多すぎる。おそらくは、都会というのは一度ドロップアウトした人間を二度と受け入れない、そういう人間の哀しみを工藤栄一は描こうとしたのではないか?映画序盤の文明慣れしていない長渕がパチンコやって「目を回す」という小ワザをきかせつつ主人公を「純粋な幼きモノ」をいとおしく描こうとしたのではないか?

 ところが、である。不健康なケンカ技を披露したり、ガキのようにわめきちらすのを芸風として、夜郎自大に振る舞うキャラクターを「是」とする長渕の解釈は違ったようだ。そういう生き方が「カッコイイ」ものでなければ彼は納得しなかったのだろう。主人公の役どころの基本的な解釈は一致していても、それを大人の視点で「愛着」を持って描こうとした工藤栄一と、それを等身大の視点で「自己表現」したかった長渕との考え方のズレが、この映画を結局のところ「意味不明(ナニ言ってんだかワカリマセーン)」にしてしまったようだ。

 勝手気ままに振る舞って挙句の果てに、癇癪持ちのガキみたいに「どうして東京は俺を受け入れてくれないんだよお!」とタメ口で恩人(住職)に食って掛かる長渕の芝居に全てが集約されているのである。前半の無垢で純粋な萩原聖人とのカラミも、恋人と再会したいがために長渕を利用した松坂の恩讐も、稔侍のアットホームな芝居も、誠直也の直線的な芝居(は、ともかく)も、なにもかも雲散霧消、終ってみれば「長渕剛の長渕剛による長渕剛のための映画」であった。

1998年03月04日

【追記】

※本文中敬称略


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■日のあたらない邦画劇場■

file updated : 2003-05-16