ねじ式 |
|
■公開:1998年 |
|
劇場には二種類の人間がいる。それは「原作を読んだことがある人」と「読んだことがない人」また、さらに「石井輝男の映画を見たことがある人」と「見たことがない人」である。 なんだ4種類じゃないか、と言いたいところであるが、それは局面ごとに反応が二分化されるということなので、二種類でいい。 生活力のない主人公(職業漫画家)・浅野忠信の内縁の妻が、地方の中小企業の社員寮の賄婦として働きに出る。住んでいたアパートを追い出された浅野はレタリング職人・金山一彦のところへ転がり込むが、やはりここでも筆は進まない。寮にはかつて妻と恋仲だったと思われる男・セパードがいた。妻は浮気をしたらしく、おまけに妊娠したらしい、と言う。相手はセパードではなかったが、この事実を知った浅野はアパートまでついてきた野良犬に見守られながら自殺を図るが死にきれず、病院へ。 ねぼけた浅野は心配して見舞いに来た不遜な大家・丹波哲郎の目前で、看護婦・藤森夕子の顔に放尿してしまうのだった。ますます落ち込みながらも浅野はなんとか一応、退院する。妻に戻れとも言えず、アパートにも帰れず、もはや東京には自分の居所はないのだと思った浅野は逃げ出してしまう。 人里はなれた「もっきりや」で出会った少女・つぐみは「一銭五厘で売られた」という。大戦末期の陸軍の補充兵(赤紙で徴兵された人達)と同額である。「ずいぶん安く買われたなあ」と同情する浅野。都会から来た浅野に親切にしてくれたつぐみは、卑猥な客のなぐさみものになる。しかし、およそ自分のように「逃げ出さない」彼女を浅野は思わず応援する。 終電が出てしまい、親切な駅員・砂塚秀夫の紹介で浅野は海辺の町にある「やなぎや」に宿泊することになった。女所帯の一人娘・藤田むつみの物欲しそうな視線がまるで「淫乱のようだ」と思った浅野は強姦魔のように娘を犯す。それなりに充実した気分になりかかった浅野だが、半年ぶりに訪れたときには顔すら忘れられていた。またもや浅野は自分の「居所」を失ってしまう。 物語は徐々(さら)に「わけわからん」方面へ進む。ある晴れた日、浅野は腕をメメクラゲに刺されて、砂浜を一人歩いていく。 病院は見つからず、夜汽車に乗ってたどり着いたシュールな町の「金太郎飴」売りの老婆・清川虹子(アスベスト館のキャラクターではありませんよ)。「あなたは私のお母さんでしょう」と唐突な運命の出会いをした浅野は、彼女の紹介でセメント工場のプラントみたいな、摩訶不思議なビルで開業している女医・水木薫に腕の傷を治療(修理?)してもらう。窓から見える海、沖では戦艦が大砲を撃っている。腕のしびれを気にする主人公のグロバリン中毒はまだ醒めていないようだ。 オープニングの前衛舞踏で「引く」かどうかは経験の差。「メメクラゲに刺された主人公・浅野忠信の傷口」を見て「げーっ」となるかどうかは趣味の問題。監督自身が観客に「異議あり!」を認めている映画と言うのはなかなか少ないと思う。「分からない人はオミットします」なんて映画作家が増えている昨今、これは貴重だと思いませんか? みんなが納得する映画、ではないだろう。つげさんの漫画のファンからも、石井監督の信者からも異論は出そうだ。ともあれ映像のアイデアが豊富な映画というのは、客の目に見えるところにちゃんと金をかけているという証拠だ。狐面の少年が機関士を勤める丘蒸気、アルコールで走る模型の味わいがレトロで美味。模型はあくまでも模型らしい特撮、光学的な映像処理もデジタルに慣れた目と脳には心地よい。技術力だけをウリにする映画は劇場にかけるな!とかつて断言した私であるが、この映画はその対極。 「石井監督の信者」で「つげ漫画も読んだことある」おまけに「シュールと言えば寺山修司」というトラウマに支配されている私には、いろんなイメージがごっちゃになってしまっていた。この映画にはグロバリンより強烈な「麻薬」が仕掛けられているので要注意だ。 蛇足ですが、つぐみの胸をまさぐる酔客・杉作J太郎さんへ。顔は思いっきり卑猥なのがとても良ろしかったが、肝心の手の演技が理性的だったのはイマイチでした。そういうところばかり見ていたわけじゃないんですけどね。 (1998年02月19日) 【追記】 |
|
※本文中敬称略 |
|
file updated : 2003-05-16