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あ・うん


■公開:1989年
■制作:東宝
■監督:降旗康男
■助監:
■脚本:
■撮影:木村大作
■音楽:
■美術:
■主演:高倉健
■寸評:


 原作のイメージにそぐわないということで、あまり世間の評価は高くないらしい。「新網走番外地」シリーズで健さんをファミリー向けに改造しようと試みたが、結果が芳ばしくなかったので、「冬の華」を以て「昭和残侠伝」を葬り「居酒屋兆治」では健さんを飲み屋のおやじに大化けさせた降旗康男。彼の高倉健改造作戦の最終章が本作品である。

 日中戦争が太平洋戦争に拡大しかかっている頃の話。実業家の高倉健、その戦友にして無二の親友であるサラリーマンの坂東英二、その妻の藤純子。それに坂東の娘の富田靖子とエリート大学生の真木蔵人が主な登場人物である。高倉健は藤純子への思いを断ち切れずにいたが、藤と坂東が結婚したので、自分から身を引いたようなもの。高倉は俗物的な妻の宮本信子に辟易しながらも、夫婦仲はそれなりに平穏である。

 坂東と藤と健さんの微妙な三角関係が、富田靖子の視点で語られていく。常にカッコイイのは健さんであり、坂東はその容貌を割引いても、徹底的に狂言回しである。だが、坂東、これだけ周囲(観客を含む)を健さんの熱烈信者に囲まれていながらよくがんばったと褒めてあげよう。放っておいても健さんは凄いのである。その健さんに軽佻浮薄な寂しがり屋さんなんてミスマッチなキャラクターを演じさせるとは、なんて卑怯な映画であろうか。

 カンカン帽被ったキザな実業家なんて健さんに似合うと思う?「お座敷でイキに遊び慣れた健さん」も「豪華な西洋家具に囲まれて安楽椅子かなんかにくつろぐ健さん」も徹底的に、もう笑っちゃうくらい似合わないんである。衣替えの時に亭主の夏服を着て、健さんの落としたハンカチを持って縁側で踊る藤純子(も、かなりヘヴィだが)を植木の陰から見ていて、つられて踊る健さんの、その目が鷹のように鋭いので、殆どストーカーにしか見えないのである。

 こんな芝居させられて、健さんカワイソーだよ!と心がシクシクしたのは私だけではあるまい。が、映画の終盤、私たちは降旗監督の仕掛けた「奇蹟」のようなシーンに出会うことになるのだ。

 この映画で一番の儲け役は帝大出のエリートの真木(ガングロ=ガンガンに日焼けしている、左翼のエリートってなんじゃらほい?)と恋仲になる、富田靖子である。収集がつかなくなった大人たちのただ中でひたすら純粋で素直だ。大人の男の魅力に参るのは、本来は父親に対して生じる感情だろうが、健さんみたいなのが傍にいたら、ま、当然の帰結だわな。で、そんな「憧れ」を卒業してやっと本物の恋愛に気付いたときには真木が兵隊にとられてしまう。

 雪が降った夜。藤純子を「愛しすぎる」のを避けるためにわざと坂東と絶交した健さんが、久しぶりに坂東の家を訪れてみるとそこへ真木が入隊の挨拶に来る。真木を見送る富田に「行きなさい、おっかけて。今晩帰ってこなくてイイよ!おじさん責任持つから。」と、ぶっきらぼうに、しかし熱く言い放つ健さん。降りしきる雪の中、走る富田を見送る健さん。お涙頂戴の通俗的な絵だと思ったそこのアナタ!違うのよ、このシーンはもっと濃ーい意味があるのよ。

 どんな映画においても、恋に関してはいつも寡黙に耐えてばっかりだった健さんが、初めて自分の気持ちを素直に言葉に出した歴史的シーンであると言えるのが、ココなのだ。だから健さんは泣く。自分が遂げられなかった思いを若い二人の絶望的な「一晩の夫婦」に託して涙を流す。

 冒頭の目も眩むような鮮やかな花のシャシンは熱血野郎・木村大作がたった一人でキャメラ担いで伊豆のあたりを放浪して収めたものとか。これは原作を読んだ大作先生のインスピレーションに依るものであるとのこと。予算超過を理由にロケ代を渋った東宝に対して大作先生の反骨魂が燃え上がったっつうところだ(この人らしいなあ)。その執念のシーンがこの映画全編の、敗戦という暗い世相の直前に展開した「小さな春」という時代性を見事に表現しているのだから、この映画は木村大作・監督と言っても過言ではないかも。

 原作に忠実であるかどうかなんて、どうでもイイのである。忠実であることよりも、そこから何を表現するかが大切なのだ。素晴しい原作が、素晴しい表現を生むという良い協力関係が生まれれば、それで結構。見るほうは至福の時が過ごせればそれが最高なのだから。

1998年03月11日

【追記】

※本文中敬称略


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■日のあたらない邦画劇場■

file updated : 2003-05-16