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日蓮と蒙古大襲来


■公開:1958年
■制作:大映
■監督:渡辺邦男
■助監:
■脚本:
■原作:
■撮影:
■美術:
■音楽:
■主演:長谷川一夫
■備考:スクリーンに賽銭が飛ぶ!


 渡辺邦男は天皇と呼ばれた。早撮りで大作を次々にモノにしていった手腕は当時の映画産業の経営者から高く評価された。明治天皇から日蓮まで、どんと来い!だったが生涯の作品のほとんどが娯楽映画だったため今ではあまり顧みられることが少ない監督の一人である。

 日蓮・長谷川一夫の成人してから後、弾圧にもめげず、数々の奇跡を起こして日蓮宗の開祖となるまで。

 新東宝・大蔵貢の「明治天皇と日露大戦争」と大映・永田雅一「日蓮と蒙古大襲来」。おそらくこの2作品で、当時までに制作された全邦画制作費の半分は消費されたであろうと考えてよい。ちゃんと客の見えるところに金を使った映画というのは、中味はともかく掛け値なしに高く評価されるべきだ。

 なにせいきなり御大・長谷川一夫が「我、日本の柱とならん!」(ジャ、ジャーン)と大見得切るのだから、この映画における日蓮というキャラクターのただならぬ思い込みのはげしさ、と言うか、尊大さが即座に理解できる。

 日蓮は自分の信仰に帰依する者だけを救済し、異教徒や弾圧者は「天罰」の名の元に呪い殺す。同胞の争いには共生の道を説くが、異国の侵略には断固立ち向かい、問答無用で全滅させる。災害や紛争を予言し、それが多少でも的中すれば「ほーら、言ったとおりになったぞ、俺を信じろ!」と辻説法。独善的で右翼的な長谷川・日蓮の姿には辟易とさせられるばかり。

 とにかく前半は布教、のち流刑、ただちに赦免、というワンパターンの繰り返しなのでかなりダルイが、そんなトホホは後半の特撮シーンで一気に解消する。この映画の価値は後半の30分(だけ)にある。

 日蓮を処刑しようとしたガミガミ親父・田崎潤。こういう異次元的な映画空間には欠かせませんな、この人の力の入り方は。日蓮の首をはねようと田崎が刀を降り上げた途端に、黒雲が湧き出し雷鳴が轟く。稲妻が走り刀に落雷!禍禍しさと荘重さが入り交じった光学処理の雷鳴の表現は日蓮の法力の威力を十二分に印象深くした。が、実際のところ、驚嘆すべきは法力の凄さよりも雷に直撃されて死なない田崎潤だったりして、ね。

 蒙古の軍団が対馬に上陸。家を焼き、住民を惨殺し、女をさらって手向かえば殺す、そりゃもうやりたい放題で、しかも兵力も武器も圧倒的なので、鎌倉幕府は手も足も出ない。若き執権・市川雷蔵や、公家の勝新太郎が奮闘するが、あとは仏法に祈念するしか術がない。日本全国、念仏宗も日蓮も、武士も公家も民百姓もみんな一斉に、連日連夜祈り続けた。そして奇跡が起こる。

 夜半の海に威風堂々の蒙古の船団。徐々に波が高くなり嵐の予感。こうなると蒙古の大砲用の樽詰めの火薬が揺れる船では災いし、やがて本格的になった暴風雨に船内はパニック状態。船は荒波にもまれ、火薬は爆発し、火と水に攻められて、蒙古の軍艦は次々に海に飲み込まれていく。精密な模型、立体感のある波、ミニチュアワークのスペクタクルシーンは、今見るとノスタルジックではあるけれど、セット部分とのチームワークが完璧で迫力満点。

 日蓮の物凄さを描きたかったのだろうが、なんだかんだ言っても、蒙古をやっつけたのも日蓮を救ったのも天災なんだから、やはり大自然の力には人間はかなわないんですな、と大納得。そういうオチが制作者の意図とは違っていたとしても、そんなことは気にしなくていい。娯楽映画とはそういうものだ。

1998年01月23日

【追記】

※本文中敬称略


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■日のあたらない邦画劇場■

file updated : 2003-05-16