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東京夜曲


■公開:1997年
■制作:ライトヴィジョン
■監督:市川準
■助監:
■脚本:
■原作:
■撮影:
■美術:
■音楽:
■主演:長塚京三
■備考:


 劇中劇というのがあるが、映画の中でかかる映画というのは面白い仕掛がしてあったりする。例えば「ああ爆弾」と「江分利満氏の優雅な生活」では「どぶ鼠作戦」、岡本喜八監督作品だった。本作品では「あらかじめ失われた恋人たち」のビデオが登場する。桃井かおり、つながりである。

 東京と言うのは流動的で最先端などと呼ばれるのであるが、実は古い町でもある。近所の連中が気楽に集まる喫茶店がある。喫茶店といってもちゃんとご飯が食べられるのであるが。その店は未亡人・桃井かおりが経営している。ある日突然、町を出た男・長塚京三が帰ってくる。彼にはちゃんとした家庭があり、妻・倍賞美津子もいる。翻訳のアルバイトをしている青年・上川隆也は、倍償に憧れていた。

 「わけあり」という言葉が好きだ。「あの人、ちょっと『わけあり』でね。」お互いにそれ以上は詮索しないという大人のつきあい。長塚、桃井、倍賞の三人の「わけ」が、倍賞に陸惚れした上川のツッコミによって次第に明かになっていく。桃井と長塚は結ばれるはずだったこと、そこに死んだ亭主が割り込んだこと、それを桃井が受け入れたこと。それを認めたくなかった長塚が家を飛び出したこと、桃井の死んだ亭主に惚れていたのが実は倍賞であったこと。

 私はこの監督のウォッチャーではないから、この作品に限ってモノを言うけれど、東京出身の(そして今でも住んでいる)私にとってはかなり他人事でない作品に思える。だが花沢徳衛の、そのまんまの下町の頑固親父のような種族は私の身の回りにはいなかった。東京ってのは結構、文化圏が多彩なんである。地域間格差とでも申しましょうか。それでも「東京」と名が付けば親しみを感じてしまうのだ。

 ドラマらしいドラマはさっぱり起きない。それは意味ありげでやかましいBGMに乗って登場するドラマがない、というのが正解。地味な娘に好かれていた男の子が、きれいな娘と結婚してしまう。披露宴は桃井の店でささやかに行われる。フラれた娘も出席している。極端に少ない台詞と生活音で進行するドラマ。観客はあたかもそこに同席しているような生々しさ。

 若い三人が自分達のような人生をトレースするのだろうか、と思った桃井は、過去の後悔を埋めるために長塚を誘うが、断わられる。桃井と長塚の、陳腐な言葉だが「青春」は終ったのだ。桃井は店を若いカップルに譲って田舎へ去る。

 シャシンの美しさが映画らしくて好き。何気ない窓からの眺めが、誰でも経験したことのある、白日夢を体験させてくれる。この映画の登場人物は、あくまでも点景なのである。主役は東京の町、そのものなんだということらしい。東京は、なんでもすぐに手にはいるし、どこへでもすぐ行くことができる町なのだ。空間の障壁(距離)はぐんぐんと小さくなっている。

 反面、時間の障壁はどんどん厚くなるばかりである。思い出は急流に押し流されるように過去へと運ばれる。ちょっと前まであった建物がなんであったか見当が付かない。登場人物でも、現代の若者であるはずの上川(のジジくさいキャラクターにも問題があるのだが)でさえすでにノスタルジックな存在に感じられてしまう。この映画はそういう東京の「時間」への哀惜なのだろう

1998年01月31日

【追記】

※本文中敬称略


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■日のあたらない邦画劇場■

file updated : 2003-05-16