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近松物語


■公開:1954年
■制作:大映
■監督:溝口健二
■助監:
■脚本:
■原作:
■撮影:宮川一夫
■美術:
■音楽:
■主演:長谷川一夫
■備考:国宝級。


 経師屋とは書画の表装、掛軸や襖に加工する職業。大経師・進藤英太郎は、暦の発刊も任されており、庶民なのに帯刀も許されていた絶大な権力者。大経師はおさん・香川京子という美しい内儀がありながら女中・南田洋子に手を出す。

 腕のよい経師職人の茂兵衛・長谷川一夫は、おさんの里の借金を工面してやろうと店の金、五貫を無断で借りようとして、大経師に折檻される。茂兵衛に惚れていた女中がこれを見かね、これは自分のためにやったことだと名乗り出る。だが、女中と茂兵衛との仲にも嫉妬した大経師は、茂兵衛を納屋に閉じ込める。

 おさんは、女中と主人の密通の動かぬ証拠をつかみ、主人を問責しようと女中の部屋で待つ。そこへ現われたのは、迷惑をかけた女中に別れを告げるために、納屋を脱出した茂兵衛であった。二人は密通者として誤解され、逃亡する。

 映画の初めのほうでは、金のために嫁いだおさんが、女好きで年寄りでおまけにドケチでブサイクな大経師が生理的に嫌いな、ただのわがまま娘に見えたが、琵琶湖で心中しようとした茂兵衛に「お慕い申しておりました」と告白され、初めて人に愛される喜びを知り、命が惜しくなる。ここから先の香川京子が素晴しい。前半の、驕慢にも見えたおさんが、恋に身を焦がす一人の女性として生きている実感に目覚め、自分に正直に生き抜こうとする女性に変わっていく。人形から人間へ「変化」する姿の狂おしさは総毛立つほどの迫力だ。

 この映画の長谷川一夫は他の映画とは全然違う。流し目なし、ドアップなし、キンキラの豪華な衣装なし、おまけに泥まみれになるわ、蹴り倒されるわ、散々なのだ。

 長谷川一夫は出自が歌舞伎であるから、職人姿であっても、ちょっとシナを作ってしまうところは女形の名残だが、所作振る舞いの美しさは感動もの。例えば本作のために浪花千栄子(おさんの実母役、衣装のシワ1本までにも行き届いた芝居の素晴しさ!これも絶品)に弟子入りして和服の着こなしから稽古した香川京子と比べて見るとよい。じっとしていれば香川も美しい(本当に美しい)が動くとアウト、だ。長谷川一夫の美しさは「動く錦絵」そのもの。衣装の美しさだけが和服の「美」ではないんだね、所作の美しさがあってこそ、その「美」が存分に堪能できるのだと分かった。これもひとえに長谷川一夫のおかげである、感謝、感謝。

 さて、伝説になっているのは冒頭ちょっと触れた「琵琶湖の小舟」のシーンである。あたりは霧、なにも見えない。そこへ一切を覚悟したおさんと茂兵衛の舟がまるで生命感なく現われる、まるで「死者の舟」である。死を目前にして、茂兵衛は抑えていた感情を初めて吐露する。

 おさんの膝にひしと茂兵衛が抱きつき、二人は心中を止め、やがて破滅すると分かっていながら恋に生きようと誓う。そこから一気に物語は変換する。それを暗示するように、今まで死んでいたはずの舟が、まるで生き物のように旋回する。そのタイミングの良さに思わず、観客はその小舟とともに引きずり込まれるのだ、二人の運命に。日本映画のベストシーンを上げよと言われれば、私は迷わずココを推す。

 黒澤明のほとんどの映画では、出演者達は監督の完全な支配下にある。小津安二郎の映画でも同様に俳優達は監督の美意識に圧倒的に支配されている。しかし、この映画は違うのだ、俳優と監督が対等なのである。溝口研二と長谷川一夫の高度な技術戦なのである、「美を追及するプロ」のせめぎ合いなのである。天から授かった個性(はもちろん)だけではない、磨き抜かれたプロの技術が火花を散らすのだ。ここに映画を観る「至福」の一つがある、と断言しよう。

 完璧なリアリズムの探究者と、苛烈なフィクションの権化の対決、国宝級の日本映画である。

1998年01月31日

【追記】

※本文中敬称略


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■日のあたらない邦画劇場■

file updated : 2003-05-16