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祇園囃子


■公開:1953年
■制作:大映
■監督:溝口健二
■助監:
■脚本:
■原作:
■撮影:
■美術:
■音楽:
■主演:木暮実千代
■備考:


 京都、祇園の芸者・木暮実千代は亡くなった仲間の芸者の娘・若尾文子を引き取ることになった。若尾はどんな辛い修行もがまんするから舞妓になりたいと言う。木暮は若尾の願いを聞き入れ、若尾も懸命に働き、芸事の稽古に励む。お茶屋の女将・浪花千栄子に借金をして若尾を座敷に御披露目したその日、役人を接待していた実業家・河津清三郎がさっそく若尾を見初める。

 芸者といえど、好きでもない男に体を許すのは我慢ならない木暮。なにも知らされずに河津に誘われた木暮は、東京のホテルで接待相手の役人と二人きりにさせられてしまう。一緒に東京に付いて行った若尾は河津に言いよられ、抱きすくめられそうになり、必死に河津の唇を噛み切った。

 騒ぎに乗じて役人をソデにした木暮は若尾の御披露目費用が河津から出ていたことを浪花から聞かされるが、なんとしても若尾の純血を守ろうと、河津の見受けの話を断わり、自分も役人に抱かれる事を断わる。浪花の怒りをかった木暮と若尾はホサれてしまう。

 花柳界で生きてきたベテラン芸者が、純粋な若い娘の一途さに親子同然の情を抱く。若者の自由奔放さは時には周囲に迷惑をかけることもある。娘の保証人を断わっておきながら、木暮に借金を頼みに来た若尾の父・進藤英太郎になけなしの宝石を手切れ金だと言って渡し、木暮は役人と一夜をともにする。

 朝帰りした木暮に「こんなイヤな思いをさせらるなら舞妓をやめる」と若尾が言いはなったとき、木暮は初めて若尾の頬を平手で打った。木暮の愛情の深さと芸者の世界の悲哀を知った若尾は、木暮に詫びた。二人は本当の親子のように仲良くなった。

 柳生に表と裏があるように(ない、ない)、「文化」にも表もあれば裏もある。花街の女性達の生き方はまさに日本の「裏文化」と言えるのではないか。封建的なしきたりに生きる木暮に対して若尾は、腹が立つくらいのアプレである。若尾、オメーは「どんな苦労でも耐える」と言ったじゃないか!木暮実千代の苦労が分からんのかい!と、観客(私)は思うのである。自分に正直で理論的に正しいことだけが「正しい」と思っている若尾の「若さ」(シャレじゃないですが)。それが木暮の悲哀を際立たせる。

 若尾文子は同性から嫌われるタイプのキャラクターを十八番にしている女優である。美人でしかも女の本能的な部分を堂々と演じるというのは、異性から見れば「魅力的」でも、女から見た場合、自我に目覚めた女というものは、実はかなりヤな女なのだ。そして、そういうヤな女を演じてサマになるのが若尾文子の凄いところなんである。

 昼メロみたいな軽さはちょっと拍子抜けだが、ヨイヨイになって木暮に金を貰いに来る進藤栄太郎(絶品!)のトホホさ、花もちならないビジネスマンの田中春男の嫌味ったらしさ、河津のオコボレにあずかろうとする下請け業者の菅井一郎の俗っぽさ、そして「姓は軟膏、名は効くの(古い?)」というオロナイン軟膏のCMでお馴染みの浪花千栄子(本名:南口キクノ)の圧倒的な風格と存在感。

 脇役がしっかりと芝居をするし、なんといっても木暮実千代の美しさが素晴しい。華やかだが、ちょっとボンクラな感じがするので親しみやすい(誉めてます)、日本人離れした彫りの深い顔立ちと、セックスアピール、日本一の「水商売女優」と言えようか。

1998年03月29日

【追記】

※本文中敬称略


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■日のあたらない邦画劇場■

file updated : 2003-05-16