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青春の殺人者


■公開:1976年

■制作:ATG

■監督:長谷川和彦

■助監:

■脚本:今村昌平

■撮影:

■音楽:

■美術:

■主演:水谷豊

■寸評:


 この映画は、主人公の水谷豊が圧倒的な母性の塊・市原悦子と、抑圧的な父性の権化・内田良平を殺害するシーンに尽きる。映画の殆どはこの大流血シーンで占められているからだ。

 中流のちょっと下くらいの家庭で閉塞してしまった青年が、まず父親を殺害し風呂場に死体をほうり込む。台所のおびただしい血のり。それを発見した母親をも殺そうとした青年に、母親は不憫さのあまり無理心中をしようと逆に迫ってくるのだ。小柄な水谷が時にはつっころがされそうになりながら、市原悦子と格闘するシーンの迫力は強烈である。

 こけつまろびつの二人を、狭い廊下から台所へと、めまぐるしくカメラは追う。怖い、こういう行きすぎた情熱にかられたときの市原悦子はまるで獣のようだ。このイカレ加減は「シャイニング」のジャック・ニコルソンを完璧に超越していた。一般家庭に斧が常備されていなくて本当に良かったなあ、等と言うてる場合じゃない。水谷の恐怖が真に迫って、オイオイ、マジで殺されんじゃねーの?と心配になったほど。

 「一緒に死のーよー」という市原にシーツをかぶせ、その胸のあたりに包丁を突き立てる水谷。「すごく痛いよ!」と叫ぶ母親、次第に弱々しくなるその声は「ああ、これで楽になれる。もうあなたのことを心配しなくて良いんだわ。」という台詞を残して、ついに絶える。

 水谷は両親の遺体を毛布でくるんで車に積み、恋人・原田美枝子のところへ行く。死体を捨てに行こうとする途中で、デモ隊に出くわす。水谷は「今、親を殺して死体を捨てに行くのです」と警官に答える。だが水谷の酔っ払ったような態度に、警官はとりあうことなく、二人を追い払おうとする。二人は無言で車を発車させる。それがラストシーン。

 水谷は両親の呪縛からさえ逃げれば、自由があると思っていた。自分が自分であるために、自分を一人前にするための凶行であったのに、警察からもまったく相手にされなかったというパラドックス。観終わった後のジャリジャリしたような口当たり悪さの正体は一体、なんだろうか。

 親に向かって「死んじまえ!」と一度は思ったことのある観客はこの主人公の姿にきっちりと己の姿を重ねてしまうことだろう。そして言葉では語られない、主人公の絶望と後悔を嫌々ながら共有してしまうからではないだろうか。親は殺さなくても先に逝くもの。それをがまんできなかった主人公の姿は当時の世相をかなりストレートに反映しているのだろう。

 映画は世相を封じ込めるタイムカプセルである。映画は変化しないが観る側の見方と考え方はどんどん変化する。こういうパッショネイトな映画は、およそ後世に伝わらないようなその時代の瞬間を切り取っているのだから、そういう意味で価値のある作品だと思う。「あの頃は俺も元気があったんだよなあ」なんてナイスミドルのぼやきが聞こえてきそうな、長谷川和彦のデビュー作。

1997年11月21日

【追記】

※本文中敬称略


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■日のあたらない邦画劇場■

file updated : 2003-05-16