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とむらい師たち


■公開:1968年

■制作:大映

■監督:三隅研次

■助監:

■脚本:

■撮影:

■音楽:

■美術:

■主演:勝新太郎

■寸評:


 葬式というセレモニーの主役は死者ではなく生者である。

 死体の顔を石膏で象ったデスマスクを作るのを商売にしている勝新太郎。最近のドライでビジネスライクな葬式がどうも気に喰わない。死者をもっと丁重に送る、心暖まるような葬式を目指して彼は、葬式ディレクター業を始める。会社の名前は「国葬(国際葬式コンサルタント)」。非合法な美容整形手術で免許停止中のアングラ医者・伊藤雄之助、霊柩車の運転手、役所の戸籍係・藤村有弘を仲間にした勝はライバルの葬儀屋の遠藤太津朗財津一郎と激しいバトルを繰り広げる。

 死体に馬乗りになってその顔面に溶いた石膏をバシバシたたきつける勝のデスマスク制作。死者に失礼なのはどっちだか、、という遺族の狼狽にもひるむ(?)ことなく勝はエネルギッシュに大暴れする、ただし死体の上で。

 究極の葬式をめざした勝は、万国博覧会の準備が進む大阪で「全国水子供養」というイベントを開催し大成功する。勝の仲間は、葬式は残された者のためにあるのだと考えて、セレモニーホールを計画する。だが、勝は葬式は死者のためのものだと主張して袂を分かつ。

 戦争で死んだ人達を弔うために奔走する勝。だが「戦後」を忘れようとしている日本ではまったく相手にしてもらえない。とうとう一人で万博に対抗して「葬(式)博(覧会)」を企画し、地下の霊廟に無数のデスマスクを並べて悦に入っていると突然、大音響が!

 人の死を商売にする者、死に魅了される者、本当に人を弔うとはどういうことなのか。様々な欲と情が交錯し、一気に水爆でもってあたり一面を焦土と化してしまうという展開にはあっけにとられるばかり。荒涼たる焼け跡で「これこそが葬博だ!」と叫んで唐突に墓穴にはまってしまう主人公。本当に水爆は破裂したのか?それは単なる主人公の妄想なのか?たたきつける雨は何も語らない。

 この映画は三隅研次の悪趣味な美的センスが宮川一夫のカメラと合体して、なんともアッケラカンとした、摩訶不思議な世界を形成しているのだけれど、惜しむらくは主役の勝新太郎の天才ぶりが、それにハマリきらずに空回りした。ハマリすぎているのは「死に顔整形」のモグリ医者の伊藤雄之助。

 水子供養で念仏を唱える勝はまるで新興宗教の教祖さながら。さすが元・ダイバダッタ(「釈迦」参照)だ!ダルダルの「風船地蔵」もそれなりにありがたく見えてくるから不思議。

 野坂昭如の原作であるこの作品はとても小さな映画なのだが、万国博覧会といういわば、ゼータクなお祭り騒ぎの影で日本中が「忘れてしまえ!」と慌てて封印した「何か」についてしっかりと観客に問いかけてくる。戦中派のセンチメンタリズムというだけでは片付けられない、それはもっと普遍的なもの、かつて日常的だったもの。つまり「死の恐怖」である。

 登場人物は誰一人、本名で呼ばれない。勝は「顔面」、バンサは「若干」、運転手は「ラッキョ」、雄之助は「せんせ」である。こうなると生身の人間まで作り物に見えてくるではないか。序盤の生臭い人間のエゴの張り合いから、ラストの唐突なカタストロフィまで一気に駆け抜けるジェットローラーコースター的映画。

1997年11月28日

【追記】

※本文中敬称略


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■日のあたらない邦画劇場■

file updated : 2003-05-16