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キクとイサム


■公開:1959年

■制作:大東映画

■監督:今井正

■助監:

■脚本:

■撮影:

■音楽:

■美術:

■主演:高橋恵美子

■寸評:


 日本映画には、やくざがハチの巣になる映画とか、人間がガスになる映画とか、死んだ按摩が化けて出る映画ばかりなわけではない、当り前だが。

 戦争直後、東北地方の田舎に住んでいる混血児のキクとイサムは肌の色が褐色で、髪の毛は縮れている。その風体からインド系であると周囲にみなされ、寺へ預けられそうになる。仏教はインドが発祥の地だからというわけだ。そんな、東大寺の坊主が修学旅行のバカガキに冗談かましているような差別と偏見の現実が、たくさん出てくる。

 姉の高橋恵美子のルックスは元全女(先日倒産した全日本女子プロレスの略称)のアジャコングを想像してもらえると分かりやすい。おっちょこちょいな弟を時には叱り飛ばし、あるいはかばってやる、あねご肌。現代の我々が心配するほど、この主人公にとって、田舎の人々の「差別」の数々は非情ではない。それは日常であったからだ。

 パンスケが進駐軍の黒ん坊の子供を産み捨てしたわけであるから、そんなのは当時は珍しくもなんともなかったのだろう。肌の色の違いにしても、なんにしても、何も起こらなければ誰も問題にはしない。小さな事件が起きた途端、周囲の人間は手のひらを返したように、この兄弟を疎ましがる。イサムが引き取られていった後、祖母と二人きりになったキクの元へ新聞記者・三国連太郎とカメラマン・高原駿雄がやって来る。

 二人は嫌がるキクにカメラを向ける。混血児が珍しいというのだ。これが都会の人間の残酷さ、いやらしさ、なのである。田舎の生活はそれなりに互いに気を遣いながら、というデリカシーが存在するが、この記者二人にとっては、キクはただの珍獣である。人間関係の希薄さや、節度を失った好奇心がかくも人間を愚劣にするものかと、短いシーンだったが、監督の言いたいことがコンパクトにまとめられていた箇所であったと思う。

 記者を追い返すために大暴れするキクに疲れ果てた祖母は尼寺(孤児院)へ行くことを奨める。その翌日、キクは納屋で首吊り自殺を試みる。が、あまりにも体重が重く、しかも縄がぼろっちかったので、「赤い殺意」の春川ますみのようにセーフになる。そこで初潮を迎えたキクに祖母は「学校に行かなくてもいいから立派な百姓になれ」と言う。キクは胸を張って鍬を担ぐのだった。

 二人の面倒をみているのが祖母・北林谷栄。齢80はとうに超したと思われる老婆役。この映画の見所はこれに尽きる。浦辺粂子もそうだったが、北林谷栄の年齢不詳演技には驚愕せざるを得ない。いつまでも若い、んじゃなくて、昔から歳寄りだった、ということで。

 当時の実年齢は48歳。女優というのはこのような「小汚いばばあ役」は嫌うと思うのだが、北林谷栄の場合、この頃からすでに晩年のキャサリン・ヘップバーンも尻尾を撒いて逃げ出すほどの「名老け演技」である。

 高橋恵美子と弟役の少年は、実生活だってかなり、この映画の二人のような目にあってたんじゃないだろうか?映画のなかではひたすら明るくて元気のよい二人。白々しくないしわざとらしくない、実に生命感あふれる演技だ。たくましい主役二人に、落ち込まされたり励まされたり。もう大昔の映画なのに、、、人間ってのは進化は早いが、なかなか進歩しないもんだね。

1997年10月29日

【追記】

※本文中敬称略


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■日のあたらない邦画劇場■

file updated : 2003-05-16