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毒蛇のお蘭


■公開:1958年
■制作:新東宝
■監督:加戸野五郎
■助監:
■脚本:大貫正義、葉山浩三
■原作:
■撮影:
■音楽:
■美術:
■主演:小畑絹子
■寸評:男から女にかんざしを送るのはラブコールの意味だそうだ。


 幕末の京都。料亭の娘・小畑絹子はある日、スリに遭った若侍・中村龍三郎に出会う。勤皇派の中村が桂小五郎に頼まれて江戸へ立つ。その夜、小畑の店が新撰組に襲撃され父親が死亡。小畑は女中とともに貧乏生活を送るハメに。いつしか時代は明治になっていた。毎日々々落ち込んでばかりいる小畑を励まそうと江戸行きを進めた女中。これが悲劇の始まりだった。

 箱根で出会った天知茂はとんでもないワル。おためごかしの親切に騙され女中は馬車で誘拐されて行方不明。小畑は天知に襲われた挙句に囲われ者になり背中に大蛇の入れ墨を彫られる。人間捨て身になるとなんでもできるもので、入れ墨以降、小畑は一気にブレイク。あっという間に名うてのスリになり、大金持ちの林寛を美人局でゆすり、林の店の番頭・天津七三郎を誘惑。店の金庫から大金を強奪する。

 余命いくばくもない大店の主人の御落胤の娘を殺しこれに成りすますが、天知に惚れている年増アバズレ・若杉嘉津子がこれを妨害。怒った小畑が乱闘の末に若杉を刺殺し天知とともに逃亡。夜更けの町で警官隊との死闘がつづく。ついに逮捕された小畑は持っていたかんざしがきっかけで、愛しい中村龍三郎と再会するが彼は警察署長になっていた。

 主演の小畑のデビュー作は教育映画の「えんぴつ泥棒」(松竹)。その翌年に主演したのがこの映画である。子供の教育上まことによろしくないが、その転落の歴史みたいなもんが事実とダブッて面白いと言えるかも。小幡は目鼻立ちのクッキリした美女。背中の彫り物は賭場で一回しか披露しないが、それがまた良いところ。出し惜しみは良くないけど出しすぎはもっと良くない。そう、それはウルトラマンのスペシウム光線みたいなもので、さんざジラして一発で決めることに価値があるのだ。

 口跡あざやかな小畑。ほんと、学校の先生みたい。めそめそしていたお嬢さんが豹変して毒婦になる。そのギャップが観客の度肝を抜くのだ。可憐な小畑(どう見ても設定は十代後半)がイキナリ啖呵切ったり、艶かしく若い男を口説く姿に観客は唖然となるだろう。年増、年増と言われるがどっこい若杉嘉津子もあでやかな毒婦を演じて双璧。

 天知茂はザンギリ頭でヘビのようにねちっこい悪党を演じる。「オレあ、蛇のような女が好きなんだ」とニタニタ笑う。だがこのような色男のワル(色悪ですな)に女は弱い。まして人生に一度リセットをかけた女性の場合は特に。「きれいな花には毒があったほうが素敵」というのは男女共通。

 賭場でもろ肌ぬいで見せる大蛇の入れ墨の迫力。あらくれどもをピタリと黙らせるカッコイイ場面だが、彼等は入れ墨に驚いたのか、はたまたサラシで締め付けた胸の谷間の迫力に二の句が継げなかったのかどっちだろう?。「ええもん見せてもらいました!」という後者のほうがなんとなくばかばかしくて良いが。

 毒婦というのは現代で言えば悪女と同意語。悪女には小賢しさが付きまとうが毒婦にはどこかしら捨鉢でエネルギッシュな響きがあって女性本来の感覚主義的な雰囲気が出ていると思う。機能でモノを考えない、本能に忠実ってところが主人公へのシンパシーの原因かもしれない。

 毒婦といえばエロ。これは切っても切れません。警官に追われ足を負傷した小畑。その足を治療したのが運のつきで小畑に利用される番頭。「春琴抄」や「瘋癲老人日記」や「ナオミ(〜キャンベルでも谷〜でもありませんよ、「痴人の愛」ですからね)」に共通するように女性の足はセックスシンボルであり男を誘惑するシーンでは本体よりもそそる。これにはキュッと締まった足首であることが必須で、できれば小足が望ましい。幅広甲高(ばんびろこうだか)や外反母肢、まして足首不明のサリーちゃん足はお断りである。

 最後に護送される小畑を見送った中村警察署長が「真人間になって出てくるまで待っている」と言うが、殺人と殺人教唆と恐喝と傷害と公務執行妨害と強盗をやった小畑が、生きたまま出所できるとは思えないんだがなあ。誘拐された被害者が犯人と共謀して大暴れ!ってまるでパトリシア・ハーストの人生みたいな映画。

1997年05月31日

【追記】

※本文中敬称略


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■日のあたらない邦画劇場■

file updated : 2003-05-16